5-1-8:プロ経営者 ジョン・スカリーと、創業者 スティーブ・ジョブズ

世界一のブランド解説 Apple 神話の検証
1980年にAppleが上場し、ジョン・スカリーがCEOに就任。スティーブ・ジョブズとの対立を経て、ジョブズはAppleを退社しました。スカリーはAppleの成長に寄与しましたが課題も多く、1990年代に市場を席巻したWindows PCに対して苦戦しました。
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「ダイナミック・デュオ」と呼ばれたジョブズ(左)とスカリー

上場後にCEOとなったジョン・スカリー

ここまで、Appleの広告コミュニケーションや製品を軸に、いくつかの神話を検証してきました。本項では1980年のAppleの上場後に、CEOとして外部から招聘したプロ経営者のジョン・スカリーと、Appleを退社するに至った創業者のスティーブ・ジョブズとの事実を時系列でひも解きます。Appleの成功への意味と経営に関して、大きな示唆を解説します。

1980年:Apple IIIの苦難とジョブズへの不信感

スティーブ・ウォズニアックが創り上げ、1977年1月に発売され大ヒットした「Apple II」の大成功によって株式市場に上場した1980年、「Apple III」が発売されました。ジョブズは本開発には深く関与しなかったもの、設計上の欠陥や過熱問題など、一部関与した部分に数々の問題が露呈し、商業的に大きな失敗を喫しました。この出来事は、ジョブズの製品開発における未熟な部分を浮き彫りにするとともに、Apple社内、特に取締役会で彼の経営手腕に対する不信感を高める要因となりました。

1983年:Lisaの登場、外部CEOの必要性とスカリーの招聘

Apple IIIと並行して、社内でスティーブ・ジョブズ以外のメンバーによって開発が進められていた「Lisa」がありましたが、途中からスティーブ・ジョブズが主導し、初のGUIを搭載して1983年に発売されました。Lisaは革新的な技術を搭載していましたが、価格の高さが災いして約1万台しか売れず、商業的には失敗に終わりました。Apple IIIに続くLisaの失敗は、Appleの経営陣に大きな衝撃を与えました。

Apple IIの成功で急成長を遂げ、その後の製品戦略がうまくいっていない状況、そしてジョブズの独断的な経営手法に対する懸念から、取締役会は外部から経験豊富な経営者を招聘することを検討し始めました。ジョブズ自身も、Appleをさらに成長させるためには、自身の弱点を補完できる、経験豊富な経営手腕を持つ人物が必要だと認識していました。その筆頭候補としてジョブズが挙げていたのは、IBM PCの生みの親であるフィリップ・ドン・エストリッジでしたが、断られていました。

スカリーへの期待と扱い

そこで白羽の矢が立ったのが、ペプシ社(PepsiCo)のCEOであったジョン・スカリーでした。当時、スカリーはペプシコーラでマイケル・ジャクソンをCMに起用するなど、革新的なマーケティング戦略を成功させており、その経営手腕は高く評価されていました。ジョブズはスカリーに直接接触し、「一生砂糖水を売り続けたいのか、それとも私と一緒に世界を変えたいのか?」という有名な言葉でスカリーをAppleに誘いました。スカリーはこの誘いを受け、1983年4月8日、AppleのCEOに就任しました。当時のAppleの売上は約8億ドルでした。

スカリーの採用にあたって、ジョブズはスカリーを単なる雇われ社長としてではなく、共同創業者の一人のように扱いました。「あなたと私で未来を創造している」と語り、自身のビジョンを共有しようとしました。ジョブズはスカリーに大きな期待を寄せており、自身の弱点である経営面を補完してくれる存在として、深く信頼していました。

1984年:Macintoshの華々しいデビューと期待外れ

1984年1月、Apple III、Lisaに続いて、スティーブ・ジョブズが主導した「Macintosh」が華々しくデビューしました。このMacintoshも、本来は、スティーブ・ジョブズが関わらない別のリーダーが進めていたプロジェクトでしたが、途中からジョブズが主導権を奪って関わりました。このMacintoshのデビューに合わせて初めて開発した広告「1984」をスーパーボウルで放映したところ、大反響を呼び、広告業界だけでなく一般の視聴者にも高く評価されました。この頃、スカリーもジョブズのビジョンを支持し、Macintosh発売に際して大規模なマーケティングキャンペーン、また販売促進を展開しました。しかし、その華々しさとは裏腹に、Macintoshの初年度の販売台数は約25万台と、当初の予想を大きく下回りました。

売上を支えているのは、ジョン・スカリーがサポートし、ウォズニアックが主導してきたApple IIの強化版と派生商品で、それ以外の売上の柱はない状態でした。この頃のAppleの株価は、Macintosh発表前後に一時的に上昇しましたが、その後は伸び悩みました。

1985年:亀裂、対立、そしてジョブズの退社

1985年に入り、Macintosh向けのオフィス用途のソフトウェア群であるMacintosh Officeの発売に向けて、スティーブ・ジョブズは新たなCM「レミングたち」を作成し再びスーパーボウルで発表しました。しかし「1984」のような反応はなく、むしろビジネス顧客を侮辱するものとして受け取られ、Appleのイメージを大きく損ねました。Macintosh全体の販売不振は変わらず、前年に発売されたLisaの不振も重なり、スカリーとジョブズの関係に亀裂が入り始めました。

ジョブズは価格の引き下げを主張しましたが、スカリーはこれに反対しました。また、ジョブズの深夜までの会議、長文のファックス、早朝の会議招集など、常識にとらわれない行動も問題視されるようになりました。さらに、4月10日と11日の取締役会で、事態は決定的になりました。スカリーは、ジョブズのMacintosh部門での権限を制限しようとしました。これに対しジョブズは、スカリーの解任を取締役会に働きかけましたが、取締役会はスカリー側につき、ジョブズの経営権限を剥奪することを決定したのです。

その後、ジョブズは実質的な権限を失った状態で会社に留まりましたが、最終的に9月17日にAppleからの辞表を提出しました。ジョブズは退社後、NeXT社を設立し、5人のApple社員を引き抜いたことで、Appleの取締役会からの訴訟も招きました。

プロ経営者としてのジョン・スカリーCEO

ジョン・スカリーのCEO時代(1983年~1993年)について、現在のAppleの大成功と比較すると、彼はスティーブ・ジョブズを追い出した人物として否定的な評価を受けることが多いです。現在のAppleの大成功は、スティーブ・ジョブズの1997年の復帰以降の卓越したリーダーシップによるところが大きいですが、ジョン・スカリーのCEO時代も、決して無駄な時間ではありませんでした。

スカリーは、売上成長、多角化、技術開発への投資など、Appleの成長に大きく貢献しました。同時に、組織の混乱、市場の変化への対応の遅れ、製品戦略の失敗など、多くの課題にも直面しました。しかし、これらの経験は、後のAppleにとって貴重な教訓となり、劇的な再生につながる重要な転換点となりました。この時期のAppleは、後のジョブズの復帰とAppleの劇的な再生につながる重要な転換点であり、スカリーの経営手腕にも評価すべき点が多く存在します。

スカリー就任以前、AppleはApple IIの成功に大きく依存していました。スカリーは、Macintoshの開発を推進し、パーソナルコンピューター市場に新たな風を吹き込みました。初期のMacintoshは高価格帯で販売台数は伸び悩みましたが、その革新的なインターフェースとマウス操作は、後のコンピューターの標準となりました。また、スカリーはMacintosh以外の製品ラインの多角化も進めました。

また、スカリーのCEO在任期間中、Appleの売上は一定の成長を遂げました。就任時(1983年)の約8億ドルから、1990年代初頭には数十億ドル規模にまで拡大しました。

これは、Macintoshの普及に加え、Apple IIの販売も継続的に貢献したこと、そして新たな市場への進出が功を奏した結果と捉えられます。特に注目すべきは、ジョブズ退任後に実現したラップトップコンピューター市場への参入と、「PowerBook」の成功です。PowerBookシリーズは、洗練されたデザインと使いやすさで市場を席巻し、Appleの収益に大きく貢献しました。現在のMacBookにつながるラップトップコンピューターの基盤を築いたと言えるでしょう。

創業者のカリスマ性とプロ経営者の経営手法の衝突

スカリーは、技術開発にも積極的に投資しました。QuickTimeなどのマルチメディア技術の開発は、後のiPodやiPhoneにおけるデジタルコンテンツ戦略の成功につながりました。「Newton MessagePad」のようなPDA(携帯情報端末)の開発も行われました。Newton MessagePadは、技術的には先進的でしたが、価格の高さやソフトウェアの完成度の低さなどが原因で商業的に失敗しました。

Nzeemin - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20417334による

しかしこの失敗は、技術の先進性だけでなく、市場のニーズや価格設定、そしてソフトウェアの完成度が製品の成功に不可欠であることをAppleに教え、後のiPhoneやiPadにつながるモバイルデバイスの先駆けとして、その技術とコンセプトは後のApple製品に受け継がれています。

スティーブ・ジョブズとの対立は、当時の組織内に混乱をもたらし、製品開発やマーケティング戦略に影響を与えました。これは、創業者のカリスマ性とプロ経営者の経営手法の衝突という、多くの企業が直面する課題を浮き彫りにしました。この経験は、後のAppleにおいて、経営陣の協調性や明確な役割分担の重要性を認識する契機となりました。

1990年代に入ると、Windowsを搭載したPCが市場を席巻し、Appleは苦戦を強いられました。これは、市場の変化への対応の遅れ、そしてソフトウェア戦略の弱さが露呈した結果と言えるでしょう。この経験は、Appleがソフトウェアとハードウェアの両方を統合的に開発することの重要性を再認識するきっかけとなりました。

プロ経営者としてのジョン・スカリーが、スティーブ・ジョブズを解雇した理由とその後について語るすばらしいインタビュー(YouTube)が残っています。この動画からプロ経営者の視点と創業者の違いを学ぶことができます。

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《西口一希》

Apple 神話の検証