
※フルバージョンはこちらです
ビール類市場が右肩下がりの厳しい環境のなか、アサヒビールは2023年に前年超えを達成しました。この成功の一因となったのは、従来のマス戦略から大きく転換した「顧客起点マーケティング」と、実在する一人の顧客を徹底的に深掘りする「N1分析」でした。 P&G出身であるアサヒビールの松山一雄社長は、なぜ大企業で異例の「N1分析」に舵を切り、いかにしてヒット商品を生み出したのでしょうか。 インタビューイー 松山一雄(まつやま・かずお)氏 アサヒビール代表取締役社長。1960年生まれ、東京都出身。1983年青山学院大学卒業後、同年鹿島建設入社。1987年サトー(現・サトーホールディングス)、1991年ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院(MBA)、1993年P&Gファーイーストインク(現P&Gジャパン)、1999年チバビジョン(現・日本アルコン)、2001年サトーホールディングス、2011年10月同社代表取締役社長兼CEOを経て、2018年9月アサヒビール専務取締役兼専務執行役員マーケティング&セールス統括本部長に就任。2019年3月同社専務取締役兼専務執行役員マーケティング本部長を歴任し、2023年3月同社代表取締役社長に就任し、現在に至る。 |
「おいしい」から「いい人生」へ:マーケティングの目的転換
松山氏が2018年にアサヒビールに入社した際、ビール類市場は低迷しているにもかかわらず、ビールの「おいしさ評価」は20年以上右肩上がりという矛盾に直面しました。この状況から松山氏は、「単に味という『モノ』が良いだけでは消費者の心は動かない」と確信します。
そこで掲げたのが、「『おいしいビールをつくる会社』から『おいしいビールのある、いい人生をつくる会社』に変えていく」という方針でした。これは、「売りたいもの」が中心だった従来のプロダクトアウトから、「真ん中に顧客を置き、顧客の心を動かすことだけに集中する」という「顧客起点マーケティング」への大転換を意味します。
インサイトこそが「心のホットボタン」
松山氏は、一般消費者が商品のことを考える時間はごくわずかであり、モノを買う・選ぶ意思決定は、無意識的、直感的、感情的な「システム1」に90%以上が依存していると指摘します。この無意識に訴えかけるには、消費者の「インサイト(深層心理)」、すなわち購入意欲のスイッチに直結する「心のホットボタン」を見つけ出すことが不可欠です。
そして、そのインサイトを見つけるには、架空のペルソナではなく、体温を持った実在する一人の顧客である「N1」と徹底的に向き合うことが不可欠であると説きました。松山氏は入社以来、「インサイトを制すものが、マーケティングを制す」というメッセージを社内で繰り返し伝えています。
ヒット事例①:顧客の「驚き」を価値に変えた「生ジョッキ缶」
「顧客起点マーケティング」を象徴する成功例が、2021年4月発売の「アサヒスーパードライ 生ジョッキ缶」です。

生ジョッキ缶は、缶の技術シーズを組み合わせることで誕生しましたが、開発上の最大の課題は、温度によって泡の出方が不安定になることでした。従来の品質基準では断念するところでしたが、松山氏はあえて顧客に試作品を試してもらった結果、泡のばらつきや、時には吹きこぼれてしまう現象自体を「面白い」「攻略したくなる」と喜ぶ顧客が多くいることを発見しました。
これにより、生ジョッキ缶は「顧客とともに完成させる商品」と位置づけられ、均一性を追求する従来の品質指標から脱却しました。発売後、あるYouTuberの動画で発せられた「これ、生じゃん!」という驚きの言葉が、インサイト(「缶ビールなのに、お店の生ビールみたい」という情緒的価値)の決め手となりました。
この挑戦は、コロナ禍による業務用ビール販売の低迷という危機感が、泡の制御といった技術的なリスクを恐れずに挑戦する勇気を社内に与えたこと、そしてR&D部門とマーケティング本部を統合し、面白いアイデアをすぐに具現化できる体制にしたことが後押しとなりました。
ヒット事例②:「N1」とマクロ視点の融合「ドライクリスタル」
2023年10月発売のアルコール度数3.5%の「アサヒスーパードライ ドライクリスタル」は、「N1分析」とマクロ環境の変化を融合させた戦略商品です。
この商品は、松山氏の父親を含むN1の生の声(中高年の「ビールを飲むのがしんどい」、若年層の「ビールを飲むとやりたいことができなくなる」)を発端に、「『スーパードライ』のキレ味を残したままで、度数を抑えたビールに需要がある」との考えから生まれました。
社内から「5%が王道」という反対意見が出る中、松山氏は「10年後にはこの『ドライクリスタル』がど真ん中になる」と訴え、海外での低アルコール飲料のトレンドというマクロな視点と、「人生100年時代」という潮流を根拠にプロジェクトを推進しました。N1の視点とマクロな視点の双方が、挑戦を後押ししたのです。
組織を変えた「N1の解像度が低い提案は持ってくるな」
松山氏は、P&G時代のリニューアル失敗の経験から、「生身の人間であるN1の理解からスタートしていなかったことが敗因」だと学びました。この反省に基づき、アサヒビールでは「N1の解像度が低い提案は持ってくるな」と経営会議で伝え続けました。
これにより、社員の提案は架空のペルソナではなく、具体的な顧客の生の声が必ず含まれるようになり、組織の意識が大きく変わりました。松山氏は、「マーケティングの目的は顧客価値を創造する『顧客の創造』」であり、N1分析は「体温のある分析」として位置づけました。
松山氏は、N1なきマーケティング戦略は机上論に過ぎないと断じ、マクロな環境分析とN1分析の両方を活用し、ミクロなN1から出発してマクロに展開していくという、両アプローチを統合した戦略の重要性を説いています。
アサヒビールの挑戦は、市場縮小下においても、「お客様の心がよりハッピーになる」という価値を追求し、結果的に大きなビジネスへつなげるという、新しい大企業の勝ち筋を示しています。
※フルバージョンはこちらです
まだ会員登録されていない方へ
会員になると、既読やブックマーク(また読みたい記事)の管理ができます。今後、会員限定記事も予定しています。登録は無料です



