3-4-5:「社内知の距離」の消滅:組織的知識創造を阻む壁をAIはいかに解体するか

AIは組織内の知識共有と暗黙知の形式知化を促進し、意思決定や人材育成、経験知の蓄積を加速させることで、柔軟な組織進化を実現します。
3-4-5:「社内知の距離」の消滅:組織的知識創造を阻む壁をAIはいかに解体するか

前段では、私たち個人がAIを「壁打ち相手」として活用し、自身の頭の中にある「暗黙知」をいかにして具体的な「形式知」へと転換していくか、その実践的なアプローチについて詳述してまいりました。しかし、個々の社員がどれだけ優れた形式知を生み出しても、それが組織全体で円滑に共有・活用されなければ、その価値は限定的なものに留まってしまいます。

ここで浮上するのが、多くの組織が抱えるもう一つの根深い課題、すなわち「社内知の距離」です。これは、野中先生の理論で言うところの、組織的な知識創造プロセスにおける「流通不全」と「形式知化の停滞」に他なりません。どれほど対外的なマーケティング施策がAIによって高度化しようとも、それを支える組織本体のナレッジフローが旧態依然のままでは、その変革は砂上の楼閣になりかねないのです。

この「社内知の距離」は、二つの側面から組織の成長を深く蝕んでいます。一つは、「形式知の流通不全」です。過去の議事録、各種マニュアル、有用なレポートといった、既に言語化・文書化されているはずの形式知が、部門間の壁やファイルサーバーの奥底に埋もれ、必要な時に必要な人材へと届かない。これは、組織の貴重な知的資産が死蔵されている状態です。もう一つは、「暗黙知の形式知化の停滞」、すなわち属人化です。特定の個人の頭の中にしかない経験やノウハウ(暗黙知)が形式知へと転換されず、その個人にしかアクセスできない状態が続く。これらは、イノベーションの阻害、生産性の低下、そして事業継続リスクといった、目に見えない巨大なコストを生み出す元凶なのです。

この根深い「社内知の距離」を解体し、組織全体の知識創造プロセスを再活性化させる可能性を秘めているのが、Googleの「NotebookLM」に代表される、組織専用のナレッジベースを構築するための新しいAIツール群です。これは、前述した個人レベルの「壁打ち相手」としてのAIとは役割が異なります。組織内に散在するあらゆる形式知(議事録、マニュアル、企画書など)を学習させ、それらを単なる静的なデータベースとしてではなく、対話可能な「生きた知能」として再構築するプラットフォームなのです。

従来の社内Wikiやファイルサーバーが形式知を「保管」する場所だったとすれば、組織専用AIは、保管された形式知に文脈を与え、対話を通じて新たな洞察を引き出すことで、知を「再活性化」させる場所です。このパラダイムシフトが、組織の働き方を根底から覆します。

「組織専用の脳」がもたらす3つの距離の消滅

では、この「組織専用の脳」は、「社内知の距離」に起因する問題をどのように解決するのでしょうか。具体的な三つの変容を見ていきましょう。

第一に、「意思決定における時間的距離」の消滅です。 これは、「過去の形式知」と「現在の意思決定」との間の断絶を解消するプロセスです。重要な会議で「半年前のA事業の戦略会議でのリスク指摘はどうだったか?」という問いが出た際、従来であれば担当者が議事録(形式知)を探し回り、会議は停滞しました。しかし、組織専用AIに「A事業に関する過去の議事録から、指摘されたリスクと対策を時系列で要約して」と命じれば、AIは瞬時に複数の形式知を統合・分析し、的確なサマリーを提示します。これにより、組織は過去の学びをリアルタイムで現在の意思決定に活かし、議論の質と速度を飛躍的に向上させることができるのです。

第二に、「人材育成における知識的距離」の消滅です。 新人や中途社員のオンボーディングは、「先輩の持つ暗黙知や、マニュアルという形式知」と「新人の知識レベル」との間の距離を埋めるプロセスに他なりません。基本的な質問の繰り返しは、教える側・教わる側双方の生産性を低下させてきました。ここに、業務マニュアルや社内規定(形式知)を網羅的に学習したAIアシスタントを導入します。新人は、この24時間365日対応のメンターに気兼ねなく質問し、自己解決を図ることができます。AIが形式知へのアクセスを民主化することで、先輩社員は、AIでは代替できないより高度な暗黙知、すなわち実践的な判断力や企業文化の伝承といったコーチングやメンタリングに集中できるようになるのです。

第三に、「業務遂行における経験的距離」の消滅です。 業務の属人化は、まさに「個人の暗黙知」が形式知化されずに組織から孤立している状態です。「この複雑なトラブルはベテランのAさんしか分からない」という状況は、組織にとって極めて脆弱です。組織専用AIは、過去の問い合わせ履歴やトラブル対応記録といった膨大な形式知を学習することで、この問題を解決します。若手社員が困難な課題に直面した際、AIに問いかければ、過去の類似ケースやベテランの判断ログ(形式知化された過去の暗黙知)から解決策の候補を得ることができます。これは、個人の暗黙知を組織の形式知へと転換する「表出化」のプロセスを、AIが組織レベルで代行・支援する画期的な仕組みであり、組織全体の業務品質を標準化し、強靭なものへと変えていきます。

結論:「知識創造エンジン」が駆動する生命体としての組織へ

AIによる真の組織変革は、対外的な活動の効率化と、組織内部のナレッジ共有・意思決定の高速化が、両輪となって進んでいきます。前者が「顧客との距離」をゼロに近づけるならば、後者は「社内知の距離」をゼロに近づけるのです。

前段で述べたように、個々の社員がAIとの「壁打ち」を通じて自らの「知識創造エンジン」を回し始めます。そして、そこで生み出された質の高い形式知が、NotebookLMのような組織専用AIというプラットフォームを通じて、組織全体で共有・結合・再利用される。このサイクルが回り始める時、組織は単なる人の集まりではなく、外部環境の変化をリアルタイムに検知し、内部の集合知を結集して最適解を導き出し、自己を進化させていく、俊敏で自己学習能力を備えた「生命体」のような存在へと変容を遂げるでしょう。

産業革命が「分業」を原理とする階層型の機械的な組織を生んだとすれば、AI革命は「知の統合」を原理とする、より動的でネットワーク化された、新たな有機的組織形態の誕生を促します。この大きなうねりの中で、経営者やリーダーに求められるのは、単に新しいツールを導入することではなく、この新しい組織OSが十全に機能するための、評価制度、情報共有の文化、そして挑戦を許容する組織風土そのものを、再設計していく強い意志とビジョンに他ならないのです。

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《西口一希》

AI大変革時代のインパクト