

AIとの「壁打ち」が生む知の創造:野中郁次郎理論に学ぶ、暗黙知を形式知に変えるAI活用術
AI技術がマーケティングの「5つの距離」を解体し、それによってマーケティング戦略や実務、さらには個人の意思決定プロセスに至るまで、広範かつ深遠な変革をもたらしうる可能性と、その中で人間がどう価値を発揮すべきかについて考察してまいりました。AIが多くの定型業務を代替する時代において、私たちの働き方そのものが問われています。
今回は、私たちビジネスパーソンが日常の業務において、この強力なAIという存在を具体的にどのように活用し、自らの思考を深め、より質の高い成果を生み出すことができるのか、その実践的なヒントに焦点を当てたいと思います。そしてその際、日本の経営学者であり、知識創造理論の世界的権威でいらっしゃる故・野中郁次郎先生の「暗黙知」と「形式知」に関する深い洞察が、現代のAI活用において極めて重要な示唆を与えてくれると私は考えています。
AIを戦略的に活用し、具体的なビジネス成果へと結びつけるためには、私たちがAIに対して「何を質問し、何を指示し、何を相談するか」という、「問いの質」が決定的に重要になります。これは、私たちが部下やチームメンバーに対して、明確な目標設定を行い、期待するアウトプットのイメージを具体的に共有するプロセスと全く同じであると捉えてください。曖昧な指示や不明確な期待では、人間が最高のパフォーマンスを発揮できないのと同様に、AIもまたその真価を発揮することはできません。AIの能力を引き出す鍵は、私たち人間側の「問いを立てる力」にあるのです。
AIとの対話を通じた「暗黙知」の「形式知」化 – 野中理論からの示唆
故・野中郁次郎先生は、知識を大きく「暗黙知(Tacit Knowledge)」と「形式知(Explicit Knowledge)」に大別し、組織が継続的にイノベーションを生み出し、価値を創造し続けるためには、個人の経験や勘といった言葉にしにくい「暗黙知」を、他者と共有可能で再利用しやすい「形式知」へと転換し、さらにそれを組織全体で発展させていくプロセス(SECIモデルなど)が不可欠である、と説かれました。
ここで、野中先生の理論における暗黙知と形式知の主な特徴を整理しておきましょう。
区分 | 主な特徴 | 例 |
---|---|---|
暗黙知 | 言語化しにくい、体験的・感情的・身体的な知、主観的 | 熟練職人の勘やコツ、優れた看護師の患者の微妙な変化を察知する観察眼、創造的なひらめき、チームの阿吽の呼吸 |
形式知 | 言語・数値・図解などで表現され、共有・再利用できる知、客観的 | 手順書、マニュアル、チェックリスト、設計図、データベース、業務ルール、科学的法則 |
重要なポイントは、暗黙知は、多くの場合、それを保持している本人すら明確に言葉で把握していない場合が多いということです。それは、身体に染み付いた技能であったり、言葉にならない直感や感覚であったりします。そして、この暗黙知を「形式知」へと転換する、つまり言語化したり、図解したり、モデル化したりするプロセスを経ることで、初めてその知識は他者と共有可能になり、客観的に吟味され、改善され、そして組織全体へとスケールしていくことが可能になるのです。
この野中先生の知識創造理論は、現代のAI活用、特に私たちがAIを「壁打ち相手」として使う際に、極めて重要な示唆を与えてくれます。AIとの対話、すなわち「問いかけ」と「AIからの応答」というキャッチボールは、まさに私たち自身の頭の中にある、まだ言葉になっていないアイデアの種、漠然とした問題意識、あるいは経験則からくる直感といった「暗黙知」を、具体的な言葉や構造化された情報、すなわち「形式知」へと転換していくプロセスを強力に支援してくれるのです。
では、具体的にどのようにAIと向き合い、この知識創造プロセスを活性化させていけばよいのでしょうか。野中理論の視点も踏まえながら、私自身が実践している取り組みを紹介します。
AIは「思考を具体化し、暗黙知を表出させる触媒」として活用
AIは単なるタスク処理ツールや情報検索エンジンに留まりません。それは、頭の中にある曖昧な思考やアイデアの断片、言葉にできない直感を言語化し、具体的なビジネス課題の定義や、斬新なアイデアへと昇華させるための強力な「触媒」となり得るのです。これは、まさに暗黙知を表出させ、形式知へと転換する初期段階をAIがサポートするイメージです。
この「潜在意識の言語化」とも言えるプロセスは、個人の能力解放に直結します。
自己認識の深化:自分では“なんとなく”と感じていた感覚や感情、あるいは直感的なアイデアを、AIに問いかけ、AIからの応答を通じて言語化していくプロセスの中で、自分自身の思考パターンや隠れた価値観、本当に解決したい課題の核心がクリアになります。これは、暗黙知が形式知化されることで、初めて自己がその知を客観的に認識できるようになる状態です。
思考の具体化と行動転換:頭の中でぼんやりとしていた抽象的なアイデアや問題意識を、AIとの対話を通じて具体的な文章や図、構造化された情報へと落とし込むことで、具体的な行動計画やネクストステップが格段に立てやすくなります。暗黙知が形式知という具体的な形を得ることで、行動への橋渡しがなされるのです。
潜在知のコミュニケーション化自分自身が持っていたユニークな経験や身体感覚、あるいは感情的な洞察といった、他者には伝えにくかった潜在的な知恵(暗黙知)も、AIを介して言語化・図解化・モデル化することで、チームメンバーや関係者と共有可能な「共通言語」(形式知)へと転換できます。これにより、協働作業の質と速度が飛躍的に向上するでしょう。
結果として、個人の内面に眠っていた洞察やひらめきが、AIという触媒を通じて具体的な「形式知」という共通言語に乗り、アウトプットの質と速度が向上し、個人としての能力が最大限に解放されるのです。そのための具体的なAIへの問いかけ方としては、以下のようなものが考えられます。
課題設定の明確化と解像度の向上:「この市場で売上を伸ばすにはどうすればいいか?」といった漠然とした問い(暗黙的な問題意識)から、例えば「当社の主力製品Aについて、現在の主要顧客層である30代男性以外の、新たな潜在顧客層を開拓したい。特に成長著しいZ世代女性に響くような、製品Aの新たな利用シーンや価値提案のアイデアを10個提案してほしい。その際、既存製品Bとの明確な差別化ポイントと、Z世代女性が共感しやすいコミュニケーションの切り口も各アイデアに加えて具体的に示して」といったように、具体的なアウトプットの形式、数量、考慮すべき条件、そして思考の切り口を明確に指示することで、AIは自分の暗黙的な思考を具体的な形式知へと転換する手助けをしてくれます。
戦略オプションの多角的探索と発想の拡張:既存の戦略やアプローチに行き詰まりを感じた時、AIは暗黙的な仮説や前提を揺さぶり、新たな視点を提供してくれます。例えば、「当社のコアコンピタンスである〇〇技術と△△という顧客基盤を最大限に活かし、現在の主要競合他社が容易には追随できないような、持続可能な競争優位性を確立できる新たなビジネスモデルのアイデアを3つ提案してほしい。それぞれのビジネスモデルについて、想定される初期投資規模、期待されるリターン、そして主要なリスク要因とその蓋然性についても簡潔にまとめて提示して」といった問いかけは、個人の経験則や直感(暗黙知)を、具体的な戦略オプション(形式知)へと展開し、思考の幅を大きく広げるのに役立ちます。
企画の網羅的かつ多角的な検討と質の向上:新規プロジェクトやキャンペーンの企画段階において、AIは個人が無意識のうちに見落としているかもしれない論点やリスクを形式知として明示化してくれます。「現在検討中のこの新規事業企画(企画書を添付)について、事業が失敗するとした場合に考えられる潜在的なリスク要素を、市場要因、競合要因、技術要因、組織要因、財務要因の観点から可能な限り網羅的に洗い出し、それぞれの対策案を複数提示してくれ」あるいは「この新製品のターゲット層である〇〇(詳細なペルソナ情報を提示)にとって、どのようなブランドメッセージやストーリーが最も感情的に響き、購買意欲を喚起するか、最新の消費者心理学や行動経済学の知見を踏まえて分析し、具体的なコピー案を複数提案してほしい」といった問いは、自分の暗黙的な企画意図や懸念点を具体的な検討項目(形式知)へと転換し、企画の実現可能性や訴求力を飛躍的に高めます。
AIを「思考の触媒」として捉え、具体的な問いを投げかけることで、私たちは自身の暗黙知を表出させ、形式知へと転換し、自己認識を深め、新たな視点を発見し、そしてより質の高いアウトプットを生み出すことができるようになるのです。次回も野中理論の視点も踏まえながら、私自身が実践している取り組みを紹介します。
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