
はじめに ――この小説について
「売れるものを作りたい」「自分の仕事が、誰かの役に立っているのか知りたい」——ビジネスに関わる人なら、一度はそう思ったことがあるはずです。
この小説『たった一人の熱狂』は、飲料メーカーに勤める若手社員・河合が、次々と壁にぶつかりながら、事業の本質を体で覚えていく成長物語です。
構成の背景にあるのは、元P&Gのマーケターであり、現在は多くの企業の経営変革を支援する西口一希が、35年の実務経験を元に構築した経営とマーケティング思考のOS(オペレーションシステム)データベースです。西口が長年の実践と研究から体系化した「N1分析」「事業ステージ論」などの考え方を、主人公の失敗と気づきを通じて体感いただけるように設計しました。
物語の中心にあるのは、どのようなビジネスにも、必ず「0→1(ゼロイチ)」「1→10(イチジュウ)」「10→∞(ジュウムゲンダイ)」という三つの事業ステージがある、という考え方です。新しい価値を生み出す「0→1」(価値の創造)、それを儲かる仕組みに育てる「1→10(価値の利益化)」、そして市場を守りながら更新し続ける「10→∞」(価値の最大化)——この三つは、それぞれ求められる思考も行動もまったく異なります。主人公の河合はそれを、成功と失敗を繰り返しながら、肌で学んでいきます。
マーケティングの知識がなくても大丈夫です。各章末に、まとめを記載していますが、飛ばしていただいても問題ありません。大切なのは、河合が「なぜうまくいかないのか」と悩む場面で、あなた自身の経験を重ねてみることです。読み終えたとき、これまで見えにくかったビジネスの全体像が、より構造的に、かつ時系列で見えるようになっているはずです。
主要登場人物
河合(主人公)
飲料メーカー、ミライ・ドリンク勤務。元トップ営業マン。マーケティング部に異動後、売れない現実に直面し、事業の本質を体得していく。
柏木(師)
伝説のマーケティング責任者。河合の背後に現れ、核心を突く問いで思考を揺さぶる。答えを与えず、気づきを引き出していく。
郷田(上司)
マーケティング部長。成熟事業(10→∞)のROI思考を絶対基準とし、河合の0→1の挑戦に冷水を浴びせ続ける。組織の重力の象徴。
佐藤さん(N1顧客)
都内のIT企業に勤める顧客。「17時の会議直前の崩れかけた自分」という切実な悩みを持つ。河合に、顧客の「本当の欲しさ」を教える最初の一人。
田中(若手)
河合が育てようとする0→1プロジェクトのリーダー。成果を急かされ、組織の物差しに潰されかける「かつての河合」の鏡。
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プロローグ 数字の霧と営業エースの矜持
売る力という「鎧」の限界
深夜2時、東京・大手町にあるミライ・ドリンク本社の22階。静まり返ったフロアで、河合はただ一点、ディスプレイに映る青い線を見つめていた。それは河合が担当する新商品、高濃度ポリフェノール飲料『クリア・ルート』の週次売上推移だった。発売から半年、その線は一度も力強く跳ね上がることなく、まるで見えない重力に引かれているかのように、画面の底辺を這い続けている。
半年前、営業部からマーケティング部へ異動してきたとき、河合は確信していた。3年連続トップ営業として、泥臭く店舗を回り、店主の懐に飛び込んで棚をこじ開けてきた自分の「売る力」があれば、マーケティングなんて数値のパズルに過ぎない、と。
しかし、画面越しに「広告」という巨大なレバーを引く今の仕事には、その手応えがまったくない。
ダッシュボードには、CTR(クリック率)、CPA(顧客獲得単価)といった専門用語が冷徹に並ぶ。どれも「正しい」とされる基準値に収めるために、河合は寝る間を惜しんで広告クリエイティブを入れ替え、リターゲティングのアルゴリズムを微調整してきた。
だが、いくら画面の中の数字を最適化しても、肝心の「実需」――誰かがコンビニの棚から商品を手に取り、レジでお金を払うという物理的な行動には、一向に結びつかない。河合ができることといえば、広告代理店とやり取りしてバナー広告の効率を数パーセント改善させることだけなのか。画面の向こう側にいるはずの何百万人の顧客は、河合にとって記号化されたデータに過ぎなかった。
「……なんでだ。なんで動かない」
河合は、何百万もの人々が住むこの街のどこかにいるはずの「顧客」を探していた。広大な「マーケティングの樹海」の入り口で、河合は完全に道を見失っていた。営業時代の「気合」は、この冷徹なデジタルデータの霧の中では、一筋の光にもならなかった。
そんな絶望の淵にいた河合に、ミライ・ドリンクの相談役で伝説のマーケティング責任者・柏木が投げかけたのは、あまりにも単純で、しかし根源的な問いだった。
「河合さん。その『鍵』は、一体誰の、どんな『鍵穴』に差し込もうとしているんだい?」
河合は「手法――HOW」という腕力に逃げ込み、最も大切な「誰に――WHO」と「何の価値を――WHAT」という設計図を置き去りにしていたことに気づかされた。価値は商品そのものに宿るのではなく、顧客の置かれた「文脈」の中で動的に生まれるものなのだ。その気づきが、河合の「変速ギア」を切り替える最初の引き金となった。