
前回までの解説では、Google Marketing Live 2025(GML)で発表された具体的なAI技術が、検索、キャンペーン自動化、クリエイティブ制作、エージェント機能、需要創造といったマーケティングの各プロセスをどのように変革し、顧客(WHO)とプロダクト(WHAT)の間の「5つの距離」を解体していくのか、その詳細なメカニズムを見てきました。
今回は、これらのAI技術による個々のプロセスの変革が、より大きな視点で、具体的にどのような4つの戦略的・実務的変化――
N1分析のリアルタイム化
ポジショニング概念の変容
プロダクト実力主義の徹底
ブランディングの役割シフト
――を引き起こすのかを詳細に解説します。個別の技術進化が結びついた先に現れる、マーケティングの新たなパラダイムについて深く掘り下げていきましょう。
1. N1分析のリアルタイム化と超パーソナルな最適化の常態化:個客起点の深化
私(西口一希)はかねてより、マーケティングでより大きな成果を出すためには、不特定多数の顧客をマスとして捉えるのではなく、個々の顧客(N1)の行動や心理を深く理解し、そのインサイトを起点にマーケティング戦略全体を組み立てる「N1分析」の重要性を提唱してまいりました。しかし、従来のN1分析は、その性質上、多大な時間と労力、そして高度な分析スキルを必要とするため、どうしても限定的な範囲での実施とならざるを得ませんでした。また、そこから得られた洞察を、即座に個々の顧客へのアプローチに反映させることも技術的に困難でした。
しかし、「5つの距離」がAIによって解体されていく未来では、このN1分析のあり方が劇的に変わります。GoogleのGeminiのような高度なAIモデルは、膨大な量の顧客データをリアルタイムで処理・分析し、個々の顧客の行動パターン、嗜好、状況、さらには潜在的なニーズまでを、かつてない精度で把握できるようになるでしょう。もちろん、AIが人間のマーケターのように深い共感や複雑な文脈のニュアンスまで完全に理解することは難しいかもしれません。しかし、少なくともデータに基づいた客観的な「N1レベルの顧客理解」と、それに応じたコミュニケーションや商品・サービスの提案の「リアルタイム最適化」が、大規模かつ自動的に行われるようになるのです。
<具体的なマーケティング実務の変化>
真の1to1マーケティングの実現と深化:
これまでは概念として語られつつも実現が難しかった、個々の顧客に最適化されたメッセージ、オファー、タイミングでのアプローチが常態化します。例えば、ある顧客が特定の情報を検索した直後(プロダクトの認知距離・潜在ニーズの自覚距離の縮小)、AIはその顧客の過去の購買履歴や閲覧行動、さらにはその時の天候や場所といったコンテキスト情報までをも瞬時に加味し、その顧客にとって最も価値の高いであろう関連商品やサービスを、最適なクリエイティブ(コミュニケーション距離の縮小)とチャネルを通じて提案できるようになります。
マーケターの実務としては、AIが生成するN1レベルのインサイトをどう解釈し、それをより大きなブランド戦略や商品開発戦略にどうフィードバックしていくかという、より戦略的な役割が重要になります。また、AIによる自動最適化を前提とした、柔軟でモジュール化されたキャンペーン設計やコンテンツ戦略が求められるでしょう。
顧客データプラットフォーム(CDP)の戦略的活用:
AIによるリアルタイムN1分析の精度は、入力されるデータの質と量に大きく左右されます。そのため、顧客に関するあらゆるデータ(行動履歴、購買履歴、デモグラフィック情報、問い合わせ履歴など)を統合的に収集・管理し、AIが活用しやすい形で整備するCDPのような基盤の戦略的重要性が飛躍的に高まります。
マーケターは、データサイエンティストやエンジニアと緊密に連携し、どのようなデータを収集・分析すれば、より深い顧客理解とAIによる最適化に繋がるのかを設計し、その運用を主導していく必要があります。
人間による「共感」と「文脈理解」の補完:
AIはデータに基づいた最適化は得意としますが、人間の持つ感情の機微や、言葉の裏にある真の意図、あるいは社会的な文脈といった、データ化しにくい要素の理解には限界があります。
マーケターには、AIの分析結果を鵜呑みにするのではなく、そこに人間ならではの共感力や深い洞察力を加え、AIの提案を検証・調整し、時にはAIでは思いつかないような創造的な打ち手を加える役割が求められます。特に、クレーム対応や複雑な顧客相談など、繊細なコミュニケーションが必要な場面では、人間の役割が不可欠であり続けるでしょう。
2.同じプロダクトが複数のWHO&WHATの組み合わせを自動実現:ポジショニング概念の変容と価値の多角化
従来のマーケティング戦略において、「ポジショニング」はSTP(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)分析の中核をなし、プロダクト(WHAT)が持つ様々な便益や独自性の中から、特定のターゲット顧客層(WHO)に対して最も効果的に訴求できる「一点」を見出し、そこに経営資源を集中投下するための重要なフレームワークでした。これは通常、競合製品との比較において、自社製品が独自の価値を提供できる領域をX軸とY軸を用いた2次元マップ上で視覚化し、そのポジションに合致したメッセージを開発するというアプローチを取ります。
しかし、AIが個々の顧客の多様なニーズや価値観、利用シーンをきめ細かく把握し、それに応じてプロダクトが持つ複数の便益や独自性の中から最適なものをリアルタイムで選び出し、個別に提示できるようになるのであれば、このような「一つのプロダクトに対して、一つの主要なターゲットと、一つの主要な訴求ポイント」という固定的なポジショニングの枠組みは、その有効性を失っていく可能性があります。プロダクトが提供しうる全ての可能性、すなわち様々な便益と独自性が、それぞれに価値を見出す多様な顧客に個別に提供されるようになるため、従来のポジショニングという「枠」による制限を超え、プロダクトはより多くの、そしてより多様な顧客にその多面的な価値を認めてもらう機会を得て、プロダクトが本来持っている最大の潜在力を余すところなく発揮することが可能になります。
<具体的なマーケティング実務の変化>
「プロダクト中心」から「顧客の多様なニーズ中心」への発想転換:
「このプロダクトは誰のための、どんな商品か」という固定的な定義ではなく、「このプロダクトは、どのような多様な人々の、どのような多様なニーズや課題に対して、どのような異なる価値を提供できるのか」という、より柔軟で多角的な視点が求められます。
例えば、ある高機能なスマートフォン(WHAT)は、ビジネスパーソン(WHO1)にとっては「生産性を高めるツール」としての価値が、写真愛好家(WHO2)にとっては「高品質なカメラ機能」としての価値が、ゲームユーザー(WHO3)にとっては「高性能なグラフィック処理能力」としての価値が、それぞれ最も重要かもしれません。AIは、これらの異なるWHOに対して、同じスマートフォンでありながら、それぞれのニーズに合致した側面を強調した情報やクリエイティブを自動的に生成し(Asset Studioの活用)、最適なチャネルで提示できるようになります(AI OverviewやAIモード、Demand Genなどの活用)。
マーケターは、自社プロダクトが持つ提供価値の「引き出し」を多様に用意し、AIがそれらを個々の顧客に合わせて自在に組み合わせられるように、情報やコンテンツを構造化しておく必要があります。つまり、同じWHAT(商品やサービス)であっても、複数のWHOとそのWHATが提供できる複数の便益と独自性の複数の組み合わせがダイナミックに実現されるのです。
マイクロセグメンテーションとパーソナライゼーションの極致:
従来のデモグラフィックや大まかなサイコグラフィックによるセグメンテーションは、より細分化されたマイクロセグメント、あるいは究極的にはN=1の個人レベルへと深化します。
マーケターは、AIが自動的に発見・生成するこれらの無数のマイクロセグメントに対して、それぞれ最適化されたコミュニケーション戦略を設計・実行(あるいはAIに実行を指示)していくことになります。これは、従来の手作業では到底不可能だったレベルのパーソナライゼーションの実現を意味します。
プロダクト開発へのフィードバックサイクルの高速化:
AIが多様な顧客とプロダクトの様々な価値とのマッチングを試みる中で、どの便益がどのタイプの顧客に響きやすいのか、あるいはまだ満たされていない新たなニーズは何か、といった貴重なデータがリアルタイムで蓄積されます。
マーケターは、これらのデータを分析し、プロダクト開発チームや事業開発チームにフィードバックすることで、より市場のニーズに合致した製品改良や新機能開発、さらには新たな事業機会の発見に繋げることができます。プロダクトが持つ「潜在的な価値」をAIが引き出し、それをマーケターが戦略的に活用するサイクルが生まれるのです。
プロダクトの潜在力の最大化:マーケティングにおける「実力主義」の徹底と本質価値の追求
WHOとWHATの間の「5つの距離」がAIによって限りなくゼロに近づき、情報の非対称性が解消されていくと、プロダクトやサービスが持つ本質的な価値、すなわち「実力」が、これまで以上にダイレクトにビジネスの成果を左右する時代が到来します。プロダクト自体の提供しうる便益や独自性が優れている限り、その実力に見合う潜在的な顧客の全てに、AIが価値を生み出す便益と独自性を的確に提案し、スムーズに届け、そして実際に価値として体験されることを支援することで、潜在的な顧客獲得や売上は、そのプロダクトが持つ実力に見合う形で自ずと最大化されていくでしょう。
顧客は、AIを活用した検索(AI OverviewやAIモードなど)を通じて、より客観的で多角的な情報を瞬時に得られるようになり、商品の比較検討も容易になります。また、AIによるレコメンデーションは、個々の顧客のニーズや状況に最適化されるため、企業側の一方的な「売り込み」や誇大な訴求は効果を発揮しにくくなります。
<具体的なマーケティング実務の変化>
「良いものを、良く伝える」というマーケティングの原点回帰:
マーケターの役割は、「売るためのテクニック」を駆使することよりも、自社プロダクトの本質的な価値を深く理解し、それを誠実に、かつ顧客にとって最も分かりやすい形で伝えることに、より一層シフトしていきます。
逆に、プロダクト自体の力が必ずしも十分ではないにもかかわらず、巧みなコミュニケーション戦術や一時的な販売促進、あるいは強力な営業力といった「マーケティングの力」に頼ってプッシュ的に、時には実力以上の過剰な訴求を行うことで実現していたような顧客獲得や売上は、AIによる情報の透明化と顧客の賢明化が進む中で、極めて難しくなると予想されます。
プロダクト開発とマーケティングのより一層の連携強化:
プロダクトの「実力」がビジネス成果に直結するようになるため、マーケティング部門はプロダクト開発の初期段階から深く関与し、顧客の真のニーズやインサイトを開発チームにフィードバックし、市場で本当に価値を発揮できるプロダクトを生み出すための共創関係を築くことが不可欠になります。
市場投入後の顧客からのフィードバック(レビュー、問い合わせ、SNSでの言及など)も、AIによってリアルタイムに収集・分析され、迅速なプロダクト改善サイクルに活かされるようになるでしょう。
誇大広告・不誠実なマーケティングの淘汰:
短期的な売上を追い求めるあまり、顧客を欺くようなマーケティング活動は、ブランドへの信頼を著しく損ない、長期的な視点では大きな不利益をもたらすでしょう。良くも悪くも、真に優れた商品・サービスとそうでないもののビジネス結果の差は、AI時代においてますます拡大していく「実力主義」が徹底されると言えます。「売りにくいものを売る」「売れないものでも売る」といった、ある種のマーケティングの技巧に依存したビジネスモデルは、その存在意義が問われることになります。
基本的なブランディングの必要性の縮小:記憶・想起から情緒的・心理的付加価値への役割シフト
従来のブランディング戦略において、主要な目的の一つは、ブランド名やその中核的な価値提案を顧客の記憶に深く刻み込み、特定のニーズが発生した際に、競合よりも先に自社ブランドを思い出してもらうこと(トップ・オブ・マインドの獲得や想起集合における優位性の確保)でした。そのために、企業は多額の広告予算を投じてブランド認知度を高め、好ましいブランドイメージを構築し、顧客の心の中に独自のポジションを確立しようと努力を重ねてきました。
しかし、AIが個々の顧客のその時々のニーズや状況、文脈をリアルタイムで的確に把握し、その瞬間に最もふさわしいプロダクトやサービスを、検索結果、ソーシャルフィード、あるいはその他のデジタル接点を通じて自動的に、かつ自然な形で推薦・提示してくれるようになるのであれば、顧客であるWHOが特定のニーズに対して特定のWHATであるプロダクトの名称やイメージを意識的に「記憶」し、努力して「想起」する必要性は相対的に低下していく可能性があります。必要な時に、必要なプロダクトが、まるで個人の嗜好を熟知した執事のように、適切なタイミングで目の前に現れるようになるのです。これは、あらゆる分野で、無駄のない究極のパーソナライズド・サブスクリプションサービスが実現されるようなイメージに近いかもしれません。
<具体的なマーケティング実務の変化>
「見つけてもらう」から「見つけ出される」への変化とブランド想起依存の低下:
これにより、単にブランド名やロゴを覚えてもらうため、あるいは特定のカテゴリーニーズ発生時に最初に思い出してもらうためだけの、広範な認知獲得型の広告やブランディング活動の費用対効果は、見直しを迫られる可能性があります。
ブランディングの役割の再定義:機能的価値から情緒的・心理的付加価値へ:
AIが製品の機能的価値や価格といった合理的な比較情報を効率的に提供してくれるようになると、ブランドが差別化を図る上でより重要になるのは、AIでは代替しにくい「情緒的・心理的な付加価値」の提供です。
具体的には、ブランドが持つ独自のストーリーや世界観への共感、ブランドコミュニティへの所属意識、ブランドを利用することによる自己表現や自己実現といった、より深く、より人間的な繋がりを顧客との間に構築することが、ブランディングの新たな役割としてクローズアップされてくるでしょう。
マーケターは、製品のスペックを訴求するだけでなく、ブランドのパーパス(存在意義)を明確に打ち出し、それに共感する顧客との長期的な関係性を育むための施策(例:質の高いコンテンツマーケティング、オンライン・オフラインのコミュニティ運営、社会貢献活動との連携など)に、より注力していく必要があります。Googleの「Creator Partnerships Hub」のような仕組みは、信頼できるクリエイターを通じて、このような情緒的な繋がりやブランドへの親近感を醸成する上で、AIと人間が協調する一つの方向性を示しているのかもしれません。ブランディングは、記憶化、想起の効果よりも、プロダクトに情緒的、心理的な付加価値を提供する役割に移っていくと考えられます。
これらの4つの大きな変化は、相互に関連しながら、マーケティングの実務と戦略のあり方を根底から変革していくでしょう。AIによる「5つの距離」の解体は、私たちマーケターにとって、これまでの常識や成功体験が通用しなくなる厳しい挑戦であると同時に、より本質的で、より顧客に寄り添ったマーケティングを追求できる、またとない機会でもあるのです。
次回は、これらの変革を踏まえ、AI時代におけるマーケターはどのように進化していくべきなのか、そしてこの大きな変化のうねりの中で、ビジネス組織や社会全体にどのような影響が及ぶのか、私たちはどのように人間中心の価値を創造し、新たな均衡点を見出していくことができるのか、この連載の結論としての総括をします。
まだ会員登録されていない方へ
会員になると、既読やブックマーク(また読みたい記事)の管理ができます。今後、会員限定記事も予定しています。登録は無料です