
はじめに:私のキャリアの原点、P&Gへの敬意と感謝を込めて
私が社会人として最初のキャリアをスタートさせ、16年間にわたりマーケターとして、そして経営者としての原理原則を叩き込まれた場所、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)。そこは、私にとって最高の学び舎でした。私は色んな経験をさせて頂きましたが、失敗経験が多く苦しかった記憶が多いのですが、厳しいながらも魅力あふれる上司や先輩、世界中から集まった優秀な同僚たちと切磋琢磨した日々は、今でも私の財産です。
P&Gを退社後、私はロート製薬、ロクシタン、そしてスマートニュースといった、それぞれ全く異なる文化と事業フェーズを持つ企業で、マーケティングや経営そのものに深く関わる機会をいただきました。その後独立しStrategy Partnersを創業しコンサルティングや投資活動を行うようになりました。さらに自身で開発した消費者理解の調査手法「9segs(ナインセグズ)」の分析サービスを提供する会社M-Forceを共同創業し、日本と米国でサービスとしての特許取得し、順調に成長したのち、2024年にマクロミル社に売却、現在マクロミルグループの一社として活躍しています。その中で、様々な企業様からお声がけを頂き、2026年2月の時点で累計490社を超える様々な業界業種、国籍の経営者や経営層の方々から事業の相談に乗らせていただくという、望外の経験を積むことができました。
この社外での多様な経験を通じて、常に自問自答してきたことがあります。それは、「P&Gで学んだマーケティングの原理は、この業界でも、この会社でも、通用するのだろうか?」ということです。
同時に、私と同じようにP&Gを巣立った多くの先輩、同僚、後輩たちが、各界のリーダーとして目覚ましい活躍を遂げ、その思考や哲学を様々な形で発信されています。彼らの活躍に刺激を受けると同時に、その発信に触れるたび、私の中でP&Gでの学びが新たな解釈や深い理解とともに再構築されていきました。P&Gでの学びは、決して閉じた世界のものではなく、社外の荒波に揉まれ、異業種の知見と交わることで、より普遍的な「原理(Principle)」へと昇華していくのだと確信するに至ったのです。私自身が提唱している顧客起点マーケティング、5segsや9segsといったフレームワークやN1分析の土台は全てP&Gで学んだ原理(Principle)に根ざしていると言えます。
この解説は、P&Gでの16年間、そして社外での20年近い経験と490社以上の経営者との対話、さらには尊敬するP&G出身の同志たちの叡智と最新の情報をもとに、改めて「P&Gマーケティングとは何だったのか」の骨子を体系化したものです。
P&Gのフレームワークが、なぜ業界や時代を超えて普遍的に機能するのか、その「原理」を解き明かし、同時に、異なる環境で応用する際にどのような「翻訳」や「進化」が必要なのかを、具体的な事例と共に示したいと考えています。
この解説が、経営とマーケティングを融合し、時代変化の中でも試行錯誤しながらもエクセレントカンパニーであり続けるP&Gと、そこで私を育ててくださったすべての先輩、同僚、後輩の皆さんへの感謝の証となるとともに、今、事業の成長に悩むすべての経営者、ビジネスパーソンにとって、自社の現在地を把握し、次の一歩を踏み出すための参考となることを願っています。
第1部:思想と哲学 - 私がP&Gで叩き込まれた、すべての事業の原点 (The "Why")
ビジネスは小手先のテクニックでは成長しない。特に、持続的に成長し、市場で勝ち続けるためには、その根底に決して揺らぐことのない思想と哲学が必要です。それは、組織が困難に直面したときに立ち返るべき北極星であり、日々の無数の意思決定を導くコンパスでもあります。
この部では、私が20年間、業界を問わず全てのビジネスの基盤にあると確信し続けているP&GのDNA、その核心に迫ります。P&Gのマーケティングは、なぜ強いのか。その答えは、具体的なフレームワークや戦術論の前に、まずこの思想的基盤を理解することから始まります。
すべては消費者から始まる - "Consumer is Boss"という絶対原則
1. 哲学の核心:"Consumer is Boss"とは何か?
P&Gの門を叩いた者が、まず最初に学ぶ言葉。それが「Consumer is Boss(消費者がボス)」です。これは、単なるスローガンではありません。P&Gの180年以上の歴史の中で培われ、企業のあらゆる活動の根底に流れる、最も重要かつ神聖な哲学です。
日本の企業で、時折「お客様は神様です」という例えが使われます。一見似ているように思えますが、この二つには決定的なニュアンスの違いがあると私は考えています。「神様」という言葉には、どこか畏れ多く、絶対的で、こちらからは能動的に働きかけることが難しい、一方的な関係性が含まれがちです。
一方で「上司(ボス)」は、もっとリアルで、ダイナミックな存在です。私たちは上司の期待に応えるために、必死で働き、報告・連絡・相談を欠かしません。上司は私たちに厳しい要求を突きつけ、パフォーマンスを評価し、時には厳しいフィードバックを与えます。しかし、同時に私たちの成長を願い、導いてくれる存在でもあります。私たちは、上司の期待を超えようと努力し、その信頼を勝ち取ることで、より大きな責任と機会を得ることができます。
P&Gにおける消費者との関係性は、まさにこの「上司」との関係に近いのです。消費者は、私たちのブランドや製品を評価し、給料(=売上)を支払ってくれる絶対的な存在です。私たちは、そのボスである消費者の期待に応えるだけでなく、期待を超える価値を提供して初めて、昇進(=事業の成長)を勝ち取ることができます。
P&Gの会議では、役職や年次に関係なく、常に「で、消費者はどう思うの?(So, what does the consumer think?)」という問いが飛び交っていました。どんなに論理的に優れた戦略も、どんなに革新的な技術も、最終的に「ボス」である消費者の心を動かし、その生活を向上させるものでなければ、何の意味もなさない。この哲学が、組織の隅々にまで徹底されているのです。
かつてP&GのCEOとして圧倒的なV字回復と長期成長を成し遂げたA.G.ラフリー氏は、その在任中、時間の3分の1以上を消費者と直接会うことに費やしたと言われています。彼は世界中の消費者宅を訪れ、洗濯や掃除、おむつ交換といった日常の家事を実際に観察し、消費者の生の声に耳を傾けました。企業のトップ自らが、会議室ではなく、消費者の生活の現場にこそ真実があると信じ、それを実践していたのです。この姿勢こそが、「Consumer is Boss」の真髄です。
私が新人ブランド・アシスタントだった頃の体験が、今でも鮮明に記憶に残っています。初めて担当ブランドであった赤ちゃん用紙おむつのパンパースのホームビジット(消費者宅訪問調査)に参加した時のことです。事前のアンケート調査の結果では、大変満足していただいている私たちのブランドのヘビーユーザーとして分類されているお母様のお宅を訪問しました。私は、彼女がきっと私たちのブランドの機能性を高く評価し、満足して使ってくれているに違いない、と意気揚々と訪問しました。
しかし、現実は大きく異なっていました。吸収量が圧倒的に強いパンパースを使いながらも、多くの不満や工夫を重ねていたのです。赤ちゃんが眠っている時は、いっぱいおしっこをしてもパンパースは漏れないけど、それは寝ている時だけ。はいはいが始まって動き始めると、どうしても漏れてしまう。赤ちゃんは、眠りから覚めたら活発に動くので、夜中でも、体を捩ったり、斜めになったり、お尻を突き上げて逆立ちするような動きをする。そうすると、大変なことになって、吸収量の強いパンパースでも1日に何枚も使うし、無駄なお金を使っている気がする。吸収量がすごいから使っているけど、そもそも吸収量だけでは全然ダメです、と。アンケート調査では見えなかった「無意識の妥協」が存在していたのです。今思えば、この経験が、私のマーケターとしての原点かもしれません。データやレポートの向こう側にいる、生身の消費者、N1の顧客のリアルな生活を想像し、その心に寄り添うこと。それなくして、真の価値創造はあり得ないのです。
ちなみに、P&Gにおいて「Consumer(消費者)」は製品を使用し便益を享受する人を指しますが、これとは別に「Shopper(買い物客)」を明確に定義し、区別しています 。この分離が「Shopper is Hero(買い物客こそがヒーローだ)」という視点を生みます。消費者は自宅で製品を評価しますが(SMOT second moment of truth 第2の真実の瞬間)、買い物客は店頭やオンラインで3~7秒の決断を下します(FMOT first moment of truth 第1の真実の瞬間)。このショッパーインサイトを理解し、小売業者の利益とショッパーの体験を同時に高めることが、JBP(joint business planning共同事業計画)の根幹となるのです。
2. 新たな「便益」を提供する - 事業の存在意義を問う
「Consumer is Boss」の哲学を実践する上で、私たちがボスから受け取るべき「指示」とは何でしょうか。それは、消費者の生活を深く、深く観察し、彼ら自身もまだ言葉にできていない課題や願望を見つけ出し、それに応える「新しい便益(Benefit)」を提案することです。
P&G退社後、私が様々な業界、特に技術力に自信を持つ経営者の皆さんと対話する中で、多くの企業が「プロダクトアウト」の罠に陥っているのを目の当たりにしてきました。「こんなに凄い技術を使ったのだから」「これだけの機能を詰め込んだのだから」売れるはずだ、という作り手側の論理が先行してしまうのです。しかし、消費者は技術のスペックを買っているのではありません。その技術がもたらす「便益」、つまり、自分の生活がどう良くなるのか、どんな嬉しい気持ちになるのか、という「価値」にお金を払っているのです。
このP&Gでの経験、そして社外での多様な経験を通じて、私はマーケティングが創造すべき「価値」を次のように定義するようになりました。それは、顧客(WHO)が、プロダクト(WHAT)の提案する『便益』と『独自性』を『自分ごと化』することです。企業が一方的に「これは価値がある」と思っていても、顧客がそれを「これは私のためのものだ」「私の生活にこれが必要だ」と「自分ごと」として受け入れ、便益を感じてくれなければ、そこに価値は生まれません。この、価値が成立するメカニズムの理解こそが、私のマーケティング思考の根幹を成しています。
ここで言う「便益」には、大きく分けて二つの側面があります。一つは「機能的便益」。製品が物理的に何をしてくれるか、という側面です。「汚れがよく落ちる」「臭いが消える」といったものがこれにあたります。そしてもう一つが「情緒的便益」。その製品を使うことで、どんな気持ちになるか、という側面です。「スッキリした気分になる」「安心できる」「自信が持てる」といったものがこれです。多くの企業は機能的便益の追求に終始しがちですが、消費者の心を掴み、強いブランドを築くためには、機能的便益に立脚した情緒的便益の提供も重要になります。
P&Gの歴史は、この「新しい便益」の発見と提供の歴史そのものです。その最も象徴的な事例が、消臭剤「ファブリーズ」の誕生でしょう。
私は、この開発には関わっておらず、当時の同僚が取り組んんでいる姿を見て学びました。当初、P&Gの研究者たちは、タバコなどの悪臭を分子レベルで無臭化する画期的な技術を開発しました。彼らはこれを「悪臭を消す」という「機能的便益」を持つスプレーとして市場に投入しましたが、売上は全く伸びませんでした。なぜなら、多くの消費者は、自分の家の悪臭に鼻が慣れてしまい、そもそも「悪臭を消したい」という便益を「自分ごと化」していなかったからです。
プロジェクトは失敗の瀬戸際に立たされました。しかし、当時のマーケティングチームは諦めませんでした。彼らは改めて消費者宅を訪問し、人々の掃除習慣を徹底的に観察し、そこで、ある共通の行動パターンを発見したそうです。多くの主婦が、ベッドメイキングや部屋の掃除といった一連の家事を終えた後、満足げな表情で部屋にスプレーをシュッとひと吹きしていたのです。
彼女たちに話を聞くと、そのスプレーは、香りをつけるためのものでした。つまり、彼女たちが求めていたのは、単なる消臭という機能ではなく、「掃除を完璧にやり遂げたという達成感と、クリーンな空間でリフレッシュしたい」という、新しい「情緒的便益」だったのです。
このインサイトに基づき、P&Gはファブリーズのコンセプトを根本から作り変えました。悪臭を消すという機能はそのままに、爽やかで清潔感のある「香り」を加え、製品コンセプトを「お掃除の仕上げに、布製品をリフレッシュする」へと転換したのです。そして、テレビCMでは、掃除を終えた主婦が満足げにファブリーズをスプレーするシーンを描きました。その結果、多くの消費者が「お掃除の仕上げ」という新しい便益を「自分ごと化」し、ファブリーズは爆発的な大ヒット商品となりました。これはまさに、消費者がまだ気づいていなかった新しい便益を提案し、見事に価値を創造した例と言えます。
事業の存在意義は、常に顧客への新しい便益を提供し続けることにある。この原理は、BtoC、BtoBを問わず、あらゆるビジネスに共通するのです。
3. ブランドの「志」を定義する - ブランド・アイデア(Brand Ideal)
消費者に新しい「便益」を提供することは、事業の根幹です。しかし、現代のようにモノや情報が溢れ、機能的な価値だけでは差別化が困難な時代において、消費者に選ばれ、愛され続けるためには、もう一歩踏み込んだ思想が必要となります。それが、ブランドが持つ「志」です。
元P&Gのグローバル・マーケティング・オフィサー(CMO)であったジム・ステンゲル氏は、その著書『Grow』の中で、世界で最も成長した50のブランドを分析し、それらが共通して、人々の生活を向上させる高い「理想(Ideal)」、すなわち「ブランド・アイデア」を持っていることを明らかにしました。
彼によれば、優れたブランド・アイデアは、以下の5つの人間普遍の価値のいずれかに根ざしていると言います。
喜びを喚起する(Eliciting Joy): 人々に幸福感、興奮、若々しさ、解放感をもたらす。
つながりを実現する(Enabling Connection): 人々が他者と、あるいは社会と繋がることを助ける。
探求心を刺激する(Inspiring Exploration): 人々が新しい体験や知識を発見し、視野を広げる自由を与える。
誇りを与える(Evoking Pride): 人々が社会に影響を与え、インスピレーションの源となることを助ける。
社会に貢献する(Impacting Society): より良いコミュニティや社会の実現に貢献する。
P&Gのブランドもまた、このブランド・アイデアを非常に重視しています。なぜなら、機能的・情緒的な「便益」が消費者の「頭(理性)」や「心(感情)」に訴えかけるものだとすれば、ブランド・アイデアは消費者の「魂(価値観)」に深く響き、ブランドとの強い絆を育むからです。
例えば、紙おむつブランドの「パンパース」を考えてみましょう。その機能的便益は、「赤ちゃんの排泄物を漏らさず、肌をさらさらに保つ」ことです。しかし、パンパースが世界中の母親たちから絶大な信頼を得ている理由は、それだけではありません。パンパースのブランド・アイデアは、「世界中の赤ちゃんの健やかな発育を願う」という、より高次の「志」にあります。このアイデアに基づき、パンパースはユニセフと共同で、新生児破傷風を撲滅するためのワクチン寄付キャンペーンを長年にわたり実施してきました。母親たちは、パンパースを購入することが、単におむつを手に入れるだけでなく、世界中の赤ちゃんの命を救う活動に参加することに繋がると感じます。これにより、パンパースは単なる「製品」を超え、母親たちの価値観に共鳴する「パートナー」となるのです。
もう一つの強力な事例が、生理用品ブランド「Always」が展開した「#LikeAGirl(女の子みたいって、いいじゃない)」キャンペーンです。思春期の少女たちの間で、「女の子みたい」という言葉が侮蔑的な意味で使われ、彼女たちの自信を喪失させているという社会的な課題に着目。このキャンペーンは、「女の子らしい」ことの素晴らしさを力強く訴えかけ、世界中の女性から大きな共感を呼びました。これは、単なる製品の広告ではなく、ブランドが持つ「志」を通じて社会にポジティブな変化をもたらそうとする試みであり、結果としてブランドの売上と好意度を劇的に向上させました。
私がP&Gを離れ、様々な企業の経営に関わる中で痛感するのは、この「志」の重要性です。特にミレニアル世代やZ世代といった若い消費者は、製品の機能性だけでなく、そのブランドがどのような価値観を持ち、社会に対してどのような姿勢を示しているかを厳しく見ています。また、優れた「志」は、消費者の心を掴むだけでなく、そこで働く従業員のエンゲージメントや誇りを高め、優秀な人材を引きつける力にもなります。私が経営に関わったロクシタンでも、南フランスのプロヴァンスのライフスタイルに根ざす自然やサステナビリティへのこだわりといったブランドの「志」が、多くの従業員と顧客の強い共感を呼んでいました。
事業の存在意義は何か? 我々のブランドは、消費者の生活を、そして社会を、どのように良くすることができるのか? この問いに対する明確な答え、すなわちブランドの「志」を持つこと。それこそが、現代において持続的に成長するブランドを築くための、不可欠な思想的基盤なのです。
第2部:戦略フレームワーク - 勝利への再現性を生む「思考のOS」 (The "What" & "How")
P&Gの思想的基盤である「Consumer is Boss」。この哲学を、実際のビジネスの勝利に結びつけるためには、思想を具体的な行動へと翻訳するための、強固で論理的な「戦略」が不可欠です。
P&Gを離れてから490社以上の経営者や経営幹部と対話する中で、多くの企業が「戦略なき戦術」に陥っているのを目の当たりにしてきました。流行りのデジタル広告手法に飛びついたり、競合が値下げしたからと安易に追随したり。それらはすべて、砂漠に穀物の種と水を撒くようなものです。穀物は育ちません。明確な目的を持って、その目的達成のために、最も正しい場所で、正しい方法を選ばなければ、成果は上がらず、現場は疲弊し続けます。なぜ、そうなってしまうのか。それは、組織全体で共有され、日々の意思決定の拠り所となるべき「思考のOS(オペレーティング・システム)」がインストールされていないからです。
P&Gは、複雑で変化の激しいビジネス環境を構造的に理解し、誰もが同じ言語で戦略を議論し、勝利への再現性を生み出すための、極めて優れた「思考のOS」を持っています。それは、長年の成功と失敗の経験から磨き上げられた、実践的なフレームワークの集合体です。
この部では、私が社外に出てその有効性と普遍性を再確認した、P&Gの戦略設計図を詳解します。これは、消費財メーカーだけでなく、IT、サービス、BtoBといったあらゆる業界で、事業を成長させるための明確な指針となるはずです。
第1章:勝利への5つの質問 - 経営戦略の明確な指針 "Playing to Win"
P&Gの数あるフレームワークの中でも、すべての戦略思考の頂点に位置するのが、元CEOのA.G.ラフリー氏と、経営思想家のロジャー・マーティン氏が共著『Playing to Win』(邦題『P&Gウェイ』)で体系化した戦略フレームワークです。これは、単なるマーケティング戦略に留まらず、事業戦略、ひいては経営戦略そのものを構築するための、5つの連動した問いから成り立っています。
私がP&Gに在籍していた頃、ラフリー氏はこのフレームワークを用いて、巨大企業P&Gを劇的に変革しました。そして、私が社外で出会った多くの優れた経営者は、意識的か無意識的かにかかわらず、この5つの問いに対する自分なりの答えを持っていました。逆に、事業が停滞している企業の多くは、この問いのいずれか、あるいはすべてが曖昧なままでした。
この5つの問いに答えられない戦略は、戦略とは呼べません。それほどまでに、このフレームワークはビジネスの本質を突いています。一つずつ見ていきましょう。
1. What is our Winning Aspiration?(我々の勝利への願望は何か?)
最初の問いは、すべての出発点です。「我々は何を目指すのか?」「我々にとっての『勝利』とは何か?」を定義すること。これが「勝利への願望(Winning Aspiration)」です。
多くの企業には、「ビジョン」や「ミッション」といった言葉が掲げられています。「社会に貢献する」「お客様を笑顔にする」。もちろん、それらは尊い志です。しかし、ラフリー氏が問う「勝利への願望」は、それらよりもっと具体的で、野心的で、そして競争を意識したものです。それは、市場という競技場で、競合他社に対して「いかにして勝ちたいのか」という意志の表明です。
私がコンサルティングで関わったある企業では、「業界No.1を目指す」というビジョンが長年掲げられていました。しかし、社員に「No.1とは具体的にどういう状態ですか?」と尋ねると、ある人は「売上高」、ある人は「顧客満足度」、またある人は「技術力」と、答えはバラバラでした。これでは、組織の力は一つの方向に向かいません。
「勝利への願望」は、抽象的なスローガンであってはなりません。それは、組織の誰もが理解でき、心を奮い立たせるような、明確な目標であるべきです。
事例:オレイ(Olay)の野心的な挑戦 - マスブランドからプレステージへの転換
P&Gが米国で販売するスキンケアブランド「オレイ」は、かつてドラッグストアで販売される、手頃な価格帯のマスブランドでした。しかし2000年代初頭、ラフリー氏のリーダーシップの下、オレイは新たな「勝利への願望」を掲げます。それは、「高価格帯のプレステージ・スキンケア市場に参入し、世界のトップブランドと肩を並べ、勝利する」というものでした。
これは、単なる売上目標ではありません。デパートの化粧品カウンターで、シャネルやエスティローダーといった強大な競合と真っ向から戦い、消費者の心を掴むという、極めて野心的な意志表示でした。この明確で、困難だからこそ挑戦心をかき立てる「勝利への願望」が、その後の製品開発、パッケージデザイン、コミュニケーション、チャネル戦略といったすべての活動を方向づけ、オレイを数十億ドル規模のメガブランドへと変貌させる原動力となったのです。
皆さんの会社、皆さんの事業にとっての「勝利」とは何でしょうか。それは、社員全員が同じ絵を描けるほど、具体的で、魅力的でしょうか。この最初の問いに真剣に向き合うことこそ、戦略策定の第一歩です。
2. Where to Play?(我々はどこで戦うか?)
「勝利への願望」を定義したら、次の問いは「その勝利を、どこで(Where)実現するのか?」です。これは、自社のリソースを投下する「場」を選択することに他なりません。
多くの経営者が陥る最大の罠の一つが、この「場の選択」を曖昧にしてしまうことです。「あれもやりたい、これもやりたい」「全ての顧客がターゲットだ」と、リソースをあらゆる可能性に薄く広く分散させてしまう。しかし、P&Gで叩き込まれた原理は真逆です。「Where to Play」とは、すなわち「Where NOT to Play(どこで戦わないか)」を決める勇気を持つことです。
場は、様々な軸で定義できます。
地理的市場: 日本か、アジアか、グローバルか。国内でも、都市部か、地方か。
製品カテゴリー: スキンケアか、ヘアケアか。その中でも、エイジングケアか、美白か。
消費者セグメント: 若年層か、富裕層か。特定のライフスタイルを持つ人々か。
流通チャネル: ドラッグストアか、デパートか、Eコマースか。
生産段階: 原材料の調達から、製造、販売までのバリューチェーンのどの部分で戦うか。
これらの軸を組み合わせ、自社が最も勝てる可能性の高い、そして「勝利への願望」を達成する上で最も魅力的な場を見極めることが、このステップの目的です。
事例:SK-IIがアジア市場に集中投資した理由
P&Gがマックスファクターを買収したことで手に入れたプレステージ・スキンケアブランド「SK-II」。当初、その展開は日本市場が中心でした。しかし、P&Gはグローバルな視点で「Where to Play」を再検討しました。
分析の結果、彼らが選んだ主場は、日本を含むアジア、特に経済成長が著しい中国でした。なぜなら、アジアの女性たちの肌質や美意識、そしてプレステージ化粧品への高い関心が、SK-IIの持つ独自の価値(ピテラ™という成分のストーリー)と完璧に合致していたからです。一方で、欧米市場は、既に強力な競合ブランドがひしめき合い、文化や美意識も異なるため、当面は「戦わない場所」と判断されました。
この「アジアに集中する」という明確な選択があったからこそ、P&Gはマーケティング投資、製品開発、人材配置といった限りあるリソースをアジア市場に集中的に投下することができました。その結果、SK-IIはアジア全域で圧倒的なプレステージブランドとしての地位を確立し、P&Gの重要な収益の柱へと成長したのです。もし、あの時「グローバルで満遍なく展開しよう」と曖昧な選択をしていたら、今のSK-IIの成功はなかったでしょう。
私がロクシタンの日本法人代表を務めていた時も、この「Where to Play」の議論は常に中心にありました。数ある製品カテゴリーの中で、ハンドクリームという圧倒的な強みを持つ領域にリソースを集中するのか。あるいは、ギフトという独自の市場で戦うのか、スキンケアをどう活用するのか。店舗チャネルとEコマース、それぞれの役割をどう定義し、投資を配分するのか。場を明確に定義することが、日々の無数の意思決定に一貫性をもたらすのです。
3. How to Win?(我々はいかにして勝つか?)
場を決めたら、いよいよ「その場で、いかにして(How)勝つか?」という、戦略の核心部分に入ります。これは、ターゲット顧客に対して、競合ではなく自社を選んでもらうための「勝利の方程式」を設計することです。
「How to Win」は、突き詰めると2つの要素から成り立っています。
価値提案(Value Proposition): ターゲット顧客にどのような独自の価値を提供するのか。
競争優位性(Competitive Advantage): 競合他社が容易に模倣できない、持続可能な強みは何か。
経営学の大家、マイケル・ポーターが提唱したように、基本的な勝ち方には「コスト・リーダーシップ(どこよりも安く提供する)」と「差別化(他にはない独自の価値を提供する)」の2つがあります。P&Gの多くのブランドは、この両方を巧みに組み合わせることで勝利してきました。
事例:「パンパース」が築いた技術的優位性とブランド信頼性による勝利
乳幼児用紙おむつ市場は、世界中で熾烈な競争が繰り広げられているカテゴリーです。その中で、P&Gの「パンパース」は、長年にわたりグローバルリーダーの地位を守り続けています。その「How to Win」戦略は、極めて明快です。
価値提案(差別化): パンパースは、常に競合の一歩先を行く技術革新によって、卓越した「機能的便益」を提供し続けてきました。より薄く、より吸収性が高く、より肌に優しい。これらの便益は、「赤ちゃんの健やかな発育を願う」という母親たちの深いインサイトに応えるものです。この圧倒的な製品力が、パンパースの価値提案の核です。
競争優位性(コストとブランド):
技術的優位性: 長年の研究開発投資によって蓄積された特許技術や製造ノウハウは、競合が簡単に追いつけない参入障壁となっています。
スケールメリットによるコスト優位性: グローバルでの圧倒的な販売数量は、原材料の大量購入や生産の効率化を可能にし、コスト競争力を生み出します。これにより、優れた機能を持つ製品を、比較的手の届きやすい価格で提供できるのです。
ブランド信頼性: 長年にわたる安全で高品質な製品の提供と、産婦人科など専門家との連携により、「パンパースなら安心」という母親たちの絶大な信頼を勝ち得ています。この信頼という無形の資産こそ、最大の競争優位性と言えるでしょう。
このように、パンパースは「優れた製品を(差別化)、手頃な価格で(コスト優位性)、安心して使える(ブランド信頼性)」という、多層的な「How to Win」戦略によって、競合を寄せ付けない盤石な地位を築いているのです。
私がスマートニュースでマーケティング責任者と務めたで時も、この「How to Win」が最初に答えるべき質問でした。数多あるニュースアプリの中で、我々の独自の価値提案は何か。そして、それを支える競争優位性をいかにして強化していくか。このHow to winを突き詰めることで、スマートニュースを2年で3倍成長させるきっかけとなったクーポンチャネルの開発に至ったのです。業界は異なっても勝利へのロジックは同じなのです。
また、現代のP&Gは、How to Winにおいて、デジタルでの「プレシジョン(精密さ)」を追求しています。かつてのマス・マーケティング(広く、薄く)から、データとテクノロジーを駆使した「マス・ワン・トゥ・ワン・マーケティング」への進化を進めています 。自社の1st Party Dataを基盤とし、数億人の消費者一人ひとりに対して、関連性の高いブランド体験を大規模に提供することを意味します 。この「プレシジョン(精密さ)」こそが、今後の、現代の勝利の方程式(How to Win)における核心的な競争優位性となります 。
4. What Capabilities Must Be in Place?(我々にはどんな能力が必要か?)
どんなに優れた「Where to Play」と「How to Win」の戦略を描いても、それを実行する「能力(Capabilities)」が組織になければ、それは「絵に描いた餅」に終わってしまいます。4つ目の問いは、戦略と実行を繋ぐ、極めて実践的な問いです。
P&Gは、自社の勝利を支えるコア・ケイパビリティとして、以下の5つを定義しています。
深い消費者・ショッパー理解(Deep Consumer and Shopper Understanding): これが全ての活動の起点です。
イノベーション(Innovation): 消費者の生活を向上させる、画期的な新製品やビジネスモデルを生み出す力。
ブランド構築(Brand Building): 消費者の心の中に、強い意味と価値を持つブランドを築き上げる力。
市場投入能力(Go-to-Market Capabilities): 小売業者との強固なパートナーシップを通じて、製品を消費者の元へ効果的かつ効率的に届ける力。
グローバル・スケール(Global Scale): 世界中の知見、技術、人材、コストメリットを活用する力。
重要なのは、これらの能力が、先に決めた「How to Win」戦略と密接に連動していることです。例えば、パンパースの「技術革新で勝つ」という戦略は、「イノベーション」という卓越した組織能力によって支えられています。SK-IIの「プレステージブランドとして勝つ」という戦略は、「ブランド構築」能力と、デパートなどの特定のチャネルで価値を伝える「市場投入能力」がなければ実現できません。
私が様々な企業の相談に乗る中で感じるのは、多くの企業が自社の「強み」と、戦略実行に必要な「能力」を混同している、ということです。自社の「強み」をリストアップするだけでは不十分です。問うべきは、「我々の『How to Win』戦略を、競合よりも圧倒的に上手く実行するために、どのような活動や能力を、他社が真似できないレベルで磨き上げる必要があるか?」ということです。それは、特定の技術力かもしれませんし、卓越した顧客サービスかもしれません。あるいは、超高速なサプライチェーンかもしれません。このコア・ケイパビリティの特定と強化こそが、戦略を持続可能なものにするのです。
5. What Management Systems Are Required?(我々にはどんなマネジメントシステムが必要か?)
最後の問いは、これまでの4つの問いで設計した戦略を、組織の日々の活動として定着させ、継続的に機能させるための「マネジメントシステム」に関するものです。これには、組織構造、業務プロセス、評価指標、そしてインセンティブといった、組織の「OS」のハードとソフト両方が含まれます。
P&Gにおいて、この問いに対する答えの代表例が、解説の後半で詳説する、いくつかの重要な仕組みです。
OGSM(Objectives, Goals, Strategies, Measures): 戦略を具体的な目標と計画に落とし込み、組織全体で共有するためのシステム。
ビジネスレビュー(年次・月次): 戦略の進捗を評価し、環境変化に対応し、組織学習を促進するための重要な経営プロセス。
ブランドマネージャー制と多機能チーム: ブランド経営の責任を明確にし、各機能の専門性を結集して戦略を実行するための組織構造。
W&DP(Work & Development Plan): 組織の戦略と個人の目標・成長を結びつけ、社員のモチベーションを高める人事評価・育成システム。
これらのマネジメントシステムが、歯車のように噛み合うことで、"Playing to Win"のフレームワークで描かれた壮大な戦略が、日々の地道な活動へと繋がり、そして確かな成果として実を結ぶのです。戦略とは、美しい一枚の絵を描くことではありません。組織という巨大な船を、勝利という目的地に向けて動かし続けるための、生きた明確な指針であり、エンジンであり、操舵システムそのものなのです。
この5つの問いは、一度答えたら終わりではありません。市場環境は常に変化します。P&Gでは、年次のビジネスレビューなどを通じて、常にこの5つの問いに立ち返り、戦略の有効性を検証し、必要であれば大胆に見直すというサイクルを回し続けています。これこそが、180年以上にわたり、変化の激しい市場で勝ち続けることを可能にしてきた、P&Gの強さの源泉なのです。
第2章:計画への落とし込み - 組織を動かす共通言語「OGSM」
前回は、P&Gの経営戦略の明確な指針である「Playing to Win」フレームワークを解説しました。勝利への願望(Winning Aspiration)を定義し、場(Where to Play)を選び、勝ち方(How to Win)を設計し、そのための組織能力(Capabilities)と経営システム(Management Systems)を規定する。この5つの問いは、事業の方向性を定める上で、これ以上なくパワフルな思考のOSです。
しかし、どんなに優れたOSも、それだけではアプリケーションは動きません。壮大な経営戦略を、現場で働く一人ひとりの日々の具体的なアクションにまで落とし込み、組織全体を同じ方向に向かって動かすための「アプリケーション」が必要です。その役割を果たすのが、P&Gが組織を動かす共通言語として活用している「OGSM」というフレームワークです。
"Playing to Win"が「何をすべきか」という戦略的選択の質を高めるものだとすれば、OGSMは「それをどう実行し、管理するか」という実行の質を高めるためのツールです。私が社外で490社以上の経営者と対話してきた中で、最も多くの企業が苦しんでいたのが、この「戦略と実行の断絶」でした。役員会で立派な中期経営計画が承認されても、それが現場の目標や評価に結びついておらず、結局は絵に描いた餅に終わってしまう。そうした光景を、何度も見てきました。P&GがP&Gたる所以は、この断絶を防ぎ、戦略を行動へと一気通貫で繋げる仕組みを持っている点にあるのです。
1. 戦略を行動に変える「OGSM」
OGSMは、以下の4つの要素の頭文字を取った、目標設定と計画管理のためのフレームワークです。その構造は極めてシンプルでありながら、奥深いです。
O (Objective - 目的):
定義: その期間(通常は1年間)で達成すべき、定性的で、野心的で、かつシンプルな言葉で表現された「目的」。これは、チーム全員の心を一つにし、奮い立たせるような「旗印」です。
優れた目的の条件「SMAC」: P&Gでは、良いObjectiveは「SMAC」を満たすべきだと教わります。Specific(具体的)、Measurable(測定可能)、Achievable(達成可能)、Consistent(上位の目的と一貫している)。ただし、Objective自体は定性的な言葉で表現されることが多く、Measurableな要素は次のGoalsで担保します。私が特に重要だと考えるのは、Specific(具体性)とConsistent(一貫性)です。「売上を伸ばす」といった曖昧なものではなく、「〇〇カテゴリーにおいて、競合Aを抜き去り、消費者の心の中でNo.1ブランドになる」といった、誰もが同じ情景を思い浮かべられるような具体的な言葉で語られるべきです。そして、その目的が、事業部や全社のより大きな目的("Playing to Win"で定めたWinning Aspiration)の達成にどう貢献するのか、その繋がりが明確でなければなりません。
G (Goals - 目標):
定義: Objectiveが達成されたかどうかを客観的に判断するための、具体的で測定可能な「数値目標」。これがなければ、Objectiveは単なる精神論に終わってしまいます。
具体例: 「売上高〇〇億円(前年比+15%)」「市場シェア〇%(+2ポイント)」「営業利益率〇%」「新規顧客のリピート率〇%達成」など。重要なのは、売上やシェアといった財務的・市場的な目標だけでなく、ブランドの健康状態を示す非財務的な目標(例:ブランド好意度、顧客満足度、ロイヤル顧客の割合など)もバランス良く設定することです。P&Gでは、これらの目標値は希望的観測ではなく、過去のデータと市場予測に基づいた、ストレッチでありながらも達成可能な数値が求められます。
S (Strategies - 戦略):
定義: 設定されたGoalsを達成するための、具体的な「戦略」あるいは「打ち手」。これは、「何をするか」という選択であり、リソースをどこに集中投下するかの宣言です。
具体例: Goalsが「市場シェア+2ポイント」であれば、そのためのStrategiesは、「①革新的な新製品Xを投入し、若年層を獲得する」「②主要チャネルであるドラッグストアでの店頭露出を最大化する」「③デジタル中心のコミュニケーションでブランドの新たな魅力を伝える」といった形になります。通常、1つのObjectiveといくつかのGoalsに対して、3~5個程度の重要な戦略が選択されます。これは、前回の"Playing to Win"における「How to Win」を、より具体的なアクションレベルにブレークダウンしたものと捉えることができます。
M (Measures - 測定指標):
定義: 各Strategyが計画通りに進捗しているか、そして期待された成果を上げているかを測定するための「KPI(重要業績評価指標)」。これにより、戦略の実行状況をリアルタイムでモニタリングし、必要に応じて迅速な軌道修正が可能になります。
具体例: Strategyが「新製品Xの投入」であれば、そのMeasuresは「新製品Xの配荷率」「トライアル購入率」「発売後3ヶ月の売上目標達成率」などになります。Strategyが「デジタルコミュニケーション」であれば、「キャンペーンサイトへの訪問者数」「エンゲージメント率」「動画広告の完全視聴率」などが設定されます。優れたMeasuresは、最終的なGoalsの達成を予測する「先行指標」としての役割を果たします。
このOGSMという一枚のシートが、ブランドの年間計画のすべてを凝縮した設計図となります。シンプルだからこそ、誰もが全体像を把握でき、自分の仕事がどの戦略に、そして最終的にどの目標や目的に貢献するのかを明確に理解できるのです。
2. 多くの企業が陥る「戦略と実行の断絶」を防ぐ
私が社外で最も多く目にした、事業が停滞する組織の共通点は、この「戦略と実行の断絶」でした。経営層が描いた立派な戦略が、なぜか現場に届かない。現場は日々のオペレーションに追われ、自分たちの仕事が会社のどこに向かっているのか実感できない。その結果、組織は一体感を失い、部門間の連携は滞り、戦略は壁に飾られたお題目のようになってしまう。
なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。それは、P&GがOGSMで実現している「一気通貫の整合性」が欠けているからです。
P&Gでは、OGSMはカスケード(滝のように流れ落ちる)方式で展開されます。まず、全社レベルの"Playing to Win"に基づき、グローバルP&GとしてのOGSMが設定されます。その全社戦略を受け、各事業部(例:ファブリック&ホームケア事業部)が、自分たちの事業部としてのOGSMを策定します。そして、その事業部OGSMを達成するために、個々のブランド(例:アリエール)が、自分たちのブランドとしてのOGSMを策定するのです。
さらに、そのブランドOGSMは、マーケティング、営業、開発、生産といった各機能部門のチーム目標へとブレークダウンされます。最終的には、ブランドマネージャーやチームメンバー一人ひとりの「W&DP(Work & Development Plan)」、すなわち個人の業務計画と目標にまで落とし込まれます。
つまり、かつて私がそうだったように、一人のブランド・アシスタントが設定する年間の目標も、その源流を辿れば、CEOが掲げた全社のObjectiveにまで繋がっているのです。この縦の強固な連携こそが、「戦略と実行の断絶」を防ぎ、20万人近い巨大組織のベクトルを同じ方向へと向かわせる原動力となっています。
私がコンサルティングで支援したある企業では、当初、経営企画部が作った中期経営計画と、営業部が追いかける売上目標、そしてマーケティング部が実施するキャンペーンが、それぞれバラバラに動いていました。私はまず、経営陣と共に、会社の「勝利への願望」を明確にすることから始め、それに基づいた全社OGSMを作成しました。そして、そのOGSMを各部門の目標にどうブレークダウンしていくか、徹底的に議論を重ねました。
最初は戸惑っていた現場の社員たちも、自分たちの仕事が会社のどの戦略に貢献するのかが明確になるにつれて、雰囲気も会話も変わっていきました。営業部は単に売上を追うだけでなく、「どのチャネルで、どの製品を売ることが、会社の利益目標達成に繋がるか」を考えるようになり、マーケティング部は「営業部が売りやすいような、商談に使えるコンテンツを作る」といった、部門を超えた連携が生まれ始めたのです。
OGSMは、単なる計画管理ツールではありません。それは、組織の壁を越え、サイロ化を防ぎ、全員が同じ目的を共有するための「共通言語」であり、コラボレーションを促進する「プラットフォーム」なのです。
第3章:消費者の頭の中を設計する - パーセプションフロー・モデルの応用
戦略のOSである“Playing to Win”、そして実行計画のアプリケーションである「OGSM」。これらP&Gのフレームワークは、極めて論理的でパワフルです。しかし、マーケティングの現場、特に消費者の心を動かすコミュニケーションを設計する上では、もう一つ、極めて重要な思考のツールが存在します。
それが、私のP&Gの同僚であり、現在はクー・マーケティング・カンパニーの代表として多くの企業のマーケティングを支援されている音部大輔さんが、P&Gでの経験を基に、誰もが活用できる形に昇華して世に広められた「パーセプションフロー®・モデル」です。
このモデルの画期的な点は、従来のマーケティングが陥りがちだった「何を言うか(What to Say)」という発想から脱却し、「消費者の頭の中で、何が起きるべきか(What to Happen)」という、認識(Perception)の変化を起点にコミュニケーションを設計する点にあります。近しい概念として、私はN1分析を提唱していますが、実は目指すところは全く同じであり、音部さんのパーセプションフローは、顧客の分析から実行までを非常に分かりやすく、かつ使いやすくプロセス化されたものだと考えています。
1.パーセプションフロー・モデルとは何か?
多くのマーケティングプランは、「売上目標〇〇円」というゴールから逆算して、「そのために広告でこんなメッセージを伝えよう」「こんなプロモーションを実施しよう」と考えがちです。しかし、このアプローチには大きな落とし穴があります。企業が伝えたいメッセージと、消費者が実際に受け取る認識との間には、しばしば大きなギャップが生まれるからです。
パーセプションフロー・モデルは、このギャップを埋めるために、まず消費者の「あるべき認識(理想のパーセプション)」を定義することから始めます。そして、その理想の状態に至るために、消費者の認識がどのように変化していくべきか、その「流れ(フロー)」を設計するのです。
具体的には、以下の要素を順番に定義していきます。
ターゲット・パーセプション(ブランドを定義): ターゲット顧客に、自社ブランドについて「〇〇なブランドだ」と認識してもらいたい、その理想の状態を具体的に記述します。
キー・パーセプション(パーセプションの変化): 理想の認識を持ってもらうために、どのようなパーセプション(認識)の変化が実現されるべきか。消費者の心を動かす「なるほど!」という気づきや発見が有効です。
スティミュラス(知覚刺激): 消費者の自発的なパーセプションの変化を促す、具体的な事実や情報をクリエイティブ(広告、イベント、記事など)やブランド体験を開発します。
メディア(伝達手段): そうしたクリエイティブや体験を、もっとも相応しいメディアや機会を通して提供します。
レスポンス(行動変容): スティミュラスに触れた消費者に、どのような行動変容(例:ブランドの検索、購入、再購入など)を期待するか。
このモデルの優れた点は、最終的なゴールである「売上」の前に、その前提となる「消費者の認識変容」という中間目標を明確に設定することにあります。これにより、コミュニケーション活動の成否を、より本質的なレベルで評価・改善することが可能になるのです。
2. BtoBやサービス業への応用
このパーセプションフロー・モデルは、消費財だけでなく、BtoBやサービス業といった無形商材のマーケティングにおいて、さらにその威力を発揮すると私は考えています。なぜなら、物理的な「モノ」がない無形商材の価値は、まさしく顧客の「認識」そのものによって決まるからです。
私がサポートさせていただいたSaaS(Software as a Service)企業での事例をご紹介します。その企業は、非常に高機能な業務管理ツールを提供していましたが、売上は伸び悩んでいました。マーケティングは、競合製品との機能比較表や、延々と続く機能リストをウェブサイトに掲載することに終始していました。これは、顧客のパーセプションが「多機能だが、複雑でよくわからないツール」という状態に留まっていることを意味していました。そこで、パーセプションフロー・モデルを用いて、コミュニケーション戦略を再設計しました。
ターゲット・パーセプション(ブランドを定義): 「このツールは、単なる業務効率化ツールではなく、我々の会社の働き方を根本から変革し、創造的なチームにしてくれる戦略的パートナーだ」
キー・パーセプション(パーセプションの変化): 「日々の面倒な報告や調整作業から解放されれば、私たちはもっと本質的でクリエイティブな仕事に集中できる」
スティミュラス(知覚刺激): 実際にツールを導入して劇的な変革を遂げた企業の成功事例(ケーススタディ)、導入企業の社員の「働きがいが向上した」という生の証言、第三者機関による「創造性向上効果」の調査データ。
メディア(伝達手段): 機能の羅列ではなく、導入企業の変革ストーリーを描いた動画コンテンツの配信、経営者向けの「創造性を解放する働き方改革セミナー」、具体的な業務課題を解決するデモンストレーション。
この戦略転換により、顧客の認識は「機能ツール」から「戦略パートナー」へと大きく変わりました。その結果、単なる価格競争から脱却し、より高い価値を顧客に提供できるようになり、事業は再び成長軌道に乗ったのです。
このように、パーセプションフロー・モデルは、P&Gの叡智が結晶したものであると同時に、業界の垣根を越えて応用可能な、極めて普遍的な「思考のOS」の一部なのです。
第3部:実践と戦術 - アイデアを「売れる価値」に変える技術 (The "Doing")
第1部ではP&Gの根幹をなす「思想と哲学」を、第2部ではその思想を勝利へと導く「戦略フレームワーク」を解説してきました。それは、いわば目的地を定め、そこへ至るための正確な海図を手に入れる作業です。しかし、どんなに優れた哲学と美しい海図があっても、船を動かす「航海術」、つまり日々の実践と戦術がなければ、我々は一歩も前に進むことはできません。
この第3部では、P&Gが180年以上の航海の中で磨き上げてきた、具体的な「航海術」に焦点を当てます。思想と戦略という抽象的な概念を、いかにして消費者の心を動かし、実際に「売れる価値」へと変えていくのか。消費者インサイトの発見から、ブランド構築、イノベーション、そして市場投入に至るまで、P&Gの現場で繰り広げられる、泥臭くもクリエイティブな実践と戦術の数々を、私の社外での経験も交えながらお伝えしたいと思います。
第1章:インサイトの探求 - 消費者の心の奥底に眠る「宝」を発見する技術
P&Gのマーケティングのすべてのプロセスは、消費者インサイトの探求から始まります。これは、第1部で述べた「Consumer is Boss」という哲学を実践するための、最も重要かつ具体的な第一歩です。優れたインサイトは、その後のすべての戦略と戦術の質を決定づける、いわば「宝の地図」のようなものです。
1. P&Gのリサーチ・調査分析手法
私がP&Gを離れて多くの企業と仕事をする中で驚いたことの一つに、リサーチ・調査分析に対する投資の考え方の違いがあります。多くの企業にとって、リサーチ・調査分析は「コストセンター」、つまり、できるだけ削減したい経費と見なされがちです。しかし、P&Gでは、リサーチ・調査分析は「プロフィットセンター」、すなわち、将来の利益を生み出すための極めて重要な「投資」と位置づけられています。
なぜなら、P&Gは失敗のコストがどれほど高くつくかを熟知しているからです。数億、数十億円を投じる新製品開発や広告キャンペーンが、見当違いの消費者理解に基づいていれば、その損失は計り知れません。リサーチ・調査分析への投資は、その巨大な失敗のリスクを最小化するための「保険」であり、同時に、競合他社が見つけていない成長機会を発見するための「探鉱投資」なのです。
P&Gは、目的やフェーズに応じて、実に多種多様なリサーチ・調査分析手法を使い分けます。その全体像は、大きく「マーケット前」と「マーケット後」に分かれます。
マーケット前のリサーチ・調査分析(戦略・開発フェーズ):
基礎理解調査(U&A調査など): 消費者がそのカテゴリーをどのように使い(Usage)、どのように感じているか(Attitude)を大規模な定量調査で把握します。市場の全体像やセグメンテーションの基礎となります。
定性調査(ホームビジット、ショップアロング、FGIなど): P&Gの真骨頂とも言える領域です。少数の消費者の行動を深く観察し、その裏にあるインサイトを発見します。これについては後ほど詳述します。
アイデア・コンセプト調査: 新しい製品や広告のアイデア、コンセプトを消費者に提示し、その受容性や魅力を評価します。(アイデアスクリーニング、コンセプトテストなど)
製品テスト: 開発した試作品を実際に使ってもらい、その性能や使用感を評価します。(コンセプト&ユーステストなど)
店頭シミュレーション: 新しいパッケージデザインや店頭での陳列方法が、実際の購買行動にどう影響するかをシミュレーション環境でテストします。
マーケット後のリサーチ・調査分析(評価・改善フェーズ):
ブランド・トラッキング調査: 発売後、ブランドの認知度、イメージ、使用率などが時系列でどう変化しているかを定期的に測定します。ブランドの健康診断です。
購買障壁調査: なぜ消費者が我々のブランドを買ってくれないのか、その障壁を特定し、改善策に繋げます。
継続的な定性調査: 市場投入後も、消費者の声に耳を傾け続け、新たなインサイトや改善のヒントを探します。
重要なのは、これらの定量調査(市場の"何"を把握する)と定性調査("なぜ"を理解する)が、相互に連携しながら進められることです。定量調査で発見された市場の傾向や課題の「なぜ」を、定性調査で深く掘り下げ、そこで得られたインサイト仮説を、再び定量調査で検証する。この行き来こそが、消費者理解の精度を高めるのです。
特に、P&Gが他社の追随を許さない強みを持つのが、ホームビジット(消費者宅訪問調査)やショップアロング(買い物同行調査)といった定性調査です。私もこれらの調査に数多く参加しましたし、その後の、ロート製薬、ロクシタン、スマートニュース時代でも、顧客理解への参加は常に優先してきました。消費者の自宅の冷蔵庫の中身やゴミ箱の中身やスマホの中身にこそ、本人が語る言葉以上に、その人の生活の実態や価値観が赤裸々に表れます。買い物に同行すれば、消費者が棚の前で一瞬見せる「ためらい」や「迷い」、手に取った商品を裏返して成分表示を読む「視線」、競合製品と比較する際の「独り言」など、アンケートでは決して捉えられないリアルな行動から、多くの仮説を得ることができます。消費者の言葉を鵜呑みにするのではなく、その行動の裏にある「矛盾」や「不便の受容」にこそ、イノベーションの宝が眠っているのです。
2. インサイト・マイニング
リサーチ・調査分析で集めた膨大な情報やデータは、それ自体では単なる大量の石に過ぎません。その中から、光り輝く「宝石」、すなわち「インサイト」を発掘する作業が、インサイト・マイニングです。まず、「インサイト」の定義を明確にしておきましょう。インサイトは、単なる「発見(Observation)」や「事実(Fact)」とは異なります。
事実(Fact): 「この地域の主婦の30%は、週に2回、まとめ洗いをしている」
発見(Observation): 「まとめ洗いをする主婦は、洗濯物の生乾きの臭いに悩んでいる人が多いようだ」
インサイト(Insight): 「(発見の裏にある真実)まとめ洗いをする多忙な主婦にとって、洗濯は早く終わらせたい面倒な家事だが、生乾きの臭いは『家事を手抜きした』という罪悪感の象徴であり、許しがたい失敗だと感じている」
お分かりでしょうか。インサイトとは、消費者の行動の裏にある、本人も明確には言語化できていない「隠された真実」であり、それを的確な言葉で表現されると、消費者が「そうそう!それが言いたかったの!」と心が動かされるような、強い共感を伴うものです。
P&Gでは、このインサイトを大きく2種類に分けて考えます。
マインド・オープニング・インサイト(認識を変えるインサイト): 消費者がこれまで「常識」だと思っていたことや、気づいていなかった事実を提示することで、「え、そうなの!?」と認識を根本から変えさせるインサイトです。P&Gの洗剤「アリエール」が、「実は、普通に洗濯しても、目に見えない菌はたくさん残っているんです」と訴求したのが典型例です。これにより、消費者の頭の中に「除菌・抗菌」という新たな判断基準が生まれ、アリエールは市場での強力なポジションを築きました。
ハート・オープニング・インサイト(感情を揺さぶるインサイト): 消費者が心の奥底で感じている、言葉にならない想いや葛藤、願望に寄り添い、「わかる!」「私のことだ!」と強い感情的な共感を呼び起こすインサイトです。P&Gのヘアケアブランド「パンテーン」が展開した「#Hair We Go さぁ、この髪でいこう」キャンペーンは、日本の画一的な就職活動における髪型への同調圧力に対して、多くの学生が感じていた「自分らしくありたい」という心の叫び(インサイト)を捉え、大きな社会的話題となりました。
優れたインサイトを発見することは、マーケティングにおいて最も創造的で、かつ困難な作業です。私も若い頃、リサーチ・調査分析で見つけた面白い発見を「これがインサイトだ!」と意気揚々と上司に報告し、「That’s just a fact. So What? それは、ただのファクトですよ。だから、何なの?」と一蹴された経験が何度もあります。その発見が、消費者の心をどう動かすのか、そして、我々のブランドが提供すべき価値にどう繋がるのか。その「So What?(だから、何なの?)」を徹底的に考え抜くことこそが、インサイト・マイニングの本質なのです。
また、もう一つの失敗談として、ある定性調査で非常に面白いインサイトを発見し、それに基づいて製品開発を進めたものの、結果的に全く売れなかった経験もあります。後で分かったのは、そのインサイトは非常に「深い」ものでしたが、ごく一部の特殊な消費者にしか当てはまらない、極めてニッチなものだったのです。インサイトには、「深さ」と同時に、潜在的な「普遍性(スケール)」のが求められます。このバランスを見極めることが、マーケターの腕の見せ所と言えるでしょう。
第2章:ブランドエクイティ構築とポートフォリオ戦略
優れたインサイトを発見したら、次はそのインサイトに応える形で、消費者の心の中に、長年にわたって愛され続ける強力な「ブランド」を築き上げていく必要があります。P&Gは、1000億の売上規模を超える多数のブランドを持つ企業ですが、それは決して偶然ではありません。ブランドという無形の資産(エクイティ)をいかにして構築し、管理していくかについて、極めて体系的な思想と戦略を持っています。
1. 愛されるブランドの作り方:ブランドエクイティ・ピラミッド
「ブランドエクイティ」とは、ブランドが持つ資産価値のことであり、消費者の心の中に存在する、そのブランドに対する知識やイメージ、感情の総体です。高いブランドエクイティを持つブランドは、消費者に選ばれやすく、価格競争に巻き込まれにくく、新製品を成功させやすいという、計り知れない恩恵を受けます。
P&Gでは、このブランドエクイティを構築していくプロセスを、マーケティング研究の第一人者であるケビン・レーン・ケラーが提唱した「ブランド・レゾナンス・ピラミッド(日本ではブランド・エクイティ・ピラミッドとも呼ばれる)」の考え方をベースに、実務に適するように強化し実践しています。このピラミッドは、ブランドと消費者の関係性が、4つのステップを経て深まっていく様子を示しています。
ステップ1:ブランド認知(Brand Salience)- あなたは誰?
ピラミッドの土台となる最も基本的なステップです。まずは、消費者に「そのブランドがどんなカテゴリーに属し、どんな基本的な便益を提供してくれるのか」を正しく認識してもらう必要があります。ブランド名を知っているだけでは不十分で、消費者が特定のニーズを感じた時に、そのブランドを真っ先に思い浮かべてもらえるか(Top of Mind認知)が重要です。
ステップ2:ブランドの意味づけ(Brand Meaning)- あなたはどんな人?
消費者がブランドに対して抱く、具体的なイメージや連想を構築するステップです。これは2つの側面から成り立ちます。
機能(Performance): 製品がどれだけ基本的な便益を満たしてくれるか(例:洗浄力、吸収性、耐久性など)。
イメージ(Imagery): ブランドがどのようなユーザーを想起させ、どのような状況で使われ、どんな個性や歴史を持っているか。
ステップ3:ブランドへの反応(Brand Response)- あなたをどう思う?
ブランドの意味づけを受けて、消費者が抱く「評価」と「感情」のステップです。
評価(Judgements): 品質、信頼性、優位性など、消費者が理性的にブランドをどう評価しているか。
感情(Feelings): 楽しさ、温かさ、安心感、興奮など、ブランドが消費者にどのような感情を呼び起こすか。
ステップ4:ブランドとの関係性(Brand Resonance)- あなたとどんな関係を築きたい?
ピラミッドの頂点であり、ブランド構築の最終目標です。これは、消費者とブランドとの間に生まれる、深く、積極的で、ロイヤルな心理的な「絆」を意味します。この段階に至ると、消費者は単なる顧客ではなく、ブランドの熱狂的な「ファン」となり、自ら進んで継続的に購入し、他者に推奨してくれるようになります。
P&Gのブランドマネージャーは、このピラミッドを常に意識しながら、マーケティング活動を設計します。広告はブランドのイメージや感情を醸成するために、製品開発は優れた機能を提供するために、店頭活動はブランド認知を高めるために、といったように、全ての活動がピラミッドの各階層をバランス良く構築するために統合されているのです。個人的には、この考えは、P&Gのように圧倒的な製品開発力と販売力がある大企業向けであって、そうではない企業にとっては、そのままの活用は難しいとは思いますが、参照すべき理想系だと思います。
2. ブランドアーキテクチャ:複数ブランドのシナジーを最大化する
P&Gのマーケティングを語る上で欠かせないのが、その巧みな「ブランドポートフォリオ戦略」です。なぜP&Gは、洗濯洗剤のカテゴリーに「アリエール」「ボールド」「さらさ」といった複数のブランドを投入するのでしょうか。一見、自社製品同士で顧客を奪い合う「カニバリゼーション」を起こしてしまい非効率に見えます。
しかし、ここには極めて戦略的な「ブランドアーキテクチャ(ブランドの構造設計)」が存在します。その目的は、カテゴリー全体の市場を最大化し、競合の入り込む隙を与えないことです。
アリエール: 「徹底的な洗浄力と除菌・抗菌」という「機能的便益」を追求する消費者をターゲットとしています。科学的で信頼性の高いイメージを構築しています。
ボールド: 「香り長続き、柔軟剤入り」といった「情緒的便益」や「簡便性」を求める消費者をターゲットとしています。楽しくて、少しおしゃれなイメージを打ち出しています。
さらさ: 赤ちゃんの衣類にも使える「無添加・肌へのやさしさ」を求める、安全性志向の消費者をターゲットとしています。安心・安全なイメージを訴求しています。
このように、各ブランドが異なる消費者セグメントに対し、異なる便益とブランドイメージを明確に提案することで、一つのブランドではカバーしきれない多様な消費者ニーズを、P&Gという企業体全体で捉えることができるのです。それぞれのブランドが、市場というパズルの異なるピースを埋める役割を担っているとイメージすると分かりやすいでしょう。
多くの日本企業の相談に乗る中で、このブランドアーキテクチャの視点が欠けているために、機会損失を招いているケースを数多く見てきました。明確な役割分担なく、似たようなコンセプトの新製品が次々と投入され、結果的に自社ブランド同士で顧客を奪い合い、管理コストだけが増大していく。これは「ブランド乱立問題」とも言える、根深い課題です。自社のブランドポートフォリオ全体を俯瞰し、各ブランドの役割とターゲットを再定義するだけでも、事業の収益性は大きく改善する可能性があります。
3. ブランドエクイティは高いが売れない場合への処方箋
「我々のブランドは、長年の歴史があり、消費者からの認知度も信頼度も高い。しかし、なぜか売上が伸び悩んでいる」。これは、経営者から多く受ける相談の一つです。高いブランドエクイティは、間違いなく貴重な資産です。しかし、それが必ずしも売上や利益に直結しないという、厳しい現実があります。
このような状況に直面した時、P&Gで学んだフレームワークと、その後の私の社外での経験を統合すると、チェックすべきポイントは大きく7つに整理できます。
製品ポートフォリオのズレ: ブランドが持つ信頼性やイメージと、現在提供している製品の間にギャップが生じていませんか?例えば、「高品質で信頼できる」というブランドイメージなのに、低価格帯の製品ばかりをラインナップしていては、ブランドエクイティを活かせません。
価格戦略の不一致: ブランド価値に見合った価格設定になっていますか?高すぎるのはもちろん問題ですが、価値があるのに安すぎる価格を設定していると、消費者に「大したことないブランドだ」と誤解され、利益機会も逃してしまいます。
マーケティング・コミュニケーションの不足: ブランド価値や製品の便益が、ターゲット顧客に正しく伝わっていますか?良いものでも、知られていなければ、伝わっていなければ存在しないのと同じです。これは、第4章で解説した「パーセプション(認識)」の問題です。
流通チャネルのミスマッチ: ターゲット顧客が買いたい場所で、簡単に製品を手に入れることができますか?例えば、若者向けのブランドなのに、彼らが普段行かないような店舗でしか売られていなければ、売上には繋がりません。これは「Physical Availability(物理的入手可能性)」の問題です。
顧客体験の毀損: 購入時や使用時の体験(P&Gで言うSMOT:Second Moment of Truth 第2の真実の瞬間、私はこの瞬間を、顧客評価に焦点をあえて「価値の再評価」と呼んでいます)が、ブランドの期待値を下回っていませんか?例えば、パッケージが非常に使いにくい、カスタマーサービスの対応が悪い、といった体験は、せっかくのブランドエクイティを簡単に破壊してしまいます。
ターゲティングの陳腐化: かつては正しかったターゲット市場が、時代の変化とともに魅力を失っていませんか?あるいは、ブランド価値を本当に評価してくれる、新たな顧客セグメントが存在するのではないでしょうか。
ビジネスモデルと組織の問題(社外で特に痛感した視点): P&Gのような完成された組織では見過ごされがちですが、多くの企業では、ブランドエクイティを売上に転換するプロセスそのものに問題が潜んでいます。例えば、優れた製品を開発しても、営業チームにその価値を売るためのインセンティブやトレーニングがなければ、店頭には並びません。あるいは、マーケティング部とEC事業部の協業が不十分で、オンラインでの顧客体験がバラバラになっている、といった組織内部の課題が、最大のボトルネックとなっているケースも少なくないのです。
ブランドエクイティという資産を、PL(損益計算書)上の売上・利益という具体的な成果に結びつけるためには、これら7つの視点から、冷静かつ多角的に自社のビジネスを診断する必要があるのです。
第3章:イノベーションと市場投入
優れたインサイトに基づき、消費者の心の中に強力なブランドエクイティを構築していく。第5章、第6章で解説したことは、マーケティングの王道です 。しかし、それだけではブランドは持続的に成長できません。市場は常に変化し、競合は進化し、消費者の期待は高まり続けます 。その中で勝ち続けるためには、現状に満足せず、常に新しい価値を創造し、それを効果的に市場に届ける「イノベーション」と「市場投入」の力が必要不可欠です 。 この章では、P&Gがいかにして巨大企業でありながらイノベーションのジレンマを乗り越え、市場を創造し続けてきたのか、そして、その価値を「真実の瞬間」で消費者に届け、勝利を掴んできたのか、その実践論に迫ります。
1. イノベーションのジレンマを超えて
ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が提唱した「イノベーションのジレンマ」という概念があります 。これは、巨大企業が既存顧客のニーズに応え、既存事業の改良(持続的イノベーション)に注力するあまり、市場のルールを根底から覆すような「破壊的イノベーション」の波に乗り遅れ、新興企業に敗北してしまうという現象を指します 。 これは、スタートアップ支援をする中で、反対側から見える、多くの成功した大企業が陥る典型的な景色でした 。既存事業が好調であればあるほど、リスクを取って未知の領域に挑戦するインセンティブは働きにくくなります。P&Gも、このジレンマに何度も直面し、短期的には試行錯誤しながら、長期では両利きの経営(持続的イノベーションと破壊的イノベーションの両立)を実践してきた稀有な企業だと思います。
持続的イノベーション: P&Gは、主力ブランドの改良を怠りません 。電動歯ブラシ「ブラウン オーラルB」のブラシヘッドは、より優れた歯垢除去能力を目指して常に進化を続けていますし、紙おむつ「パンパース」の吸収体技術も、年々薄く、より快適になっています。こうした継続的な改良が、ブランドへの信頼を維持し、競合の追随を許さない基盤となっています。
破壊的イノベーション: 同時にP&Gは、自社の巨大な既存事業を破壊しかねない、全く新しいカテゴリーの創造にも果敢に挑戦してきました 。その代表例が、2012年に米国で発売されたジェルボール型洗剤「タイドポッド(Tide Pods)」です。 当時、P&Gは液体洗剤と粉末洗剤で圧倒的なシェアを誇っていました 。しかし、消費者調査からは、「洗剤の計量が面倒」「液体をこぼしてしまう」「詰め替えが手間」といった、消費者自身も半ば諦めていた「不便さ」がインサイトとして浮かび上がっていました。 これに応えるべくP&Gが開発したのが、1回分の洗剤を水溶性のフィルムで包んだ「ポッド」でした。これは、計量不要で、洗濯機に一つ放り込むだけという、圧倒的な簡便性を提供します。しかし、その発売は大きな経営判断を伴いました。なぜなら、この新製品が成功すれば、自社の主力である液体・粉末洗剤の売上を奪う(カニバリゼーション)可能性があるからです。 多くの企業なら、このリスクを恐れて発売をためらったでしょう。しかし、P&Gは「我々が自社のビジネスを破壊しなければ、いずれ競合が破壊しにくる」という考え方を持っています。消費者に明確な新しい便益を提供できるのであれば、たとえ自社製品と競合しようとも、それを市場に投入する。この勇気ある決断の結果、タイドポッドは消費者に熱狂的に受け入れられ、洗剤市場に「ジェルボール」という新たな巨大カテゴリーを創造し、P&Gのリーダーシップをさらに盤石なものにしたのです。
このイノベーションへの渇望を支えるもう一つの哲学が、オープンイノベーション「Connect + Develop(C+D)」です 。2000年代初頭、A.G.ラフリー氏のリーダーシップの下、P&Gは「世界中のすべての賢い人が、P&Gで働いているわけではない」という謙虚な認識のもと、研究開発を社内だけに閉じず、外部の技術やアイデアを積極的に取り入れる方針へと大きく舵を切りました。この取り組みが、目にみえる結果につながったかのかどうかには議論があるのですが、少なくとも、イノーベーションのジレンマに晒され続ける巨大企業が、自前主義から脱却し、社内外の知恵を結集してイノベーションを加速させようとする「Connect + Develop」の思想は、変化のスピードが速い現代において、すべての企業が一考すべきかと思います。
2. 「再現性のある魔法」を支える開発プロセス:SIMPLとCVA
P&Gのイノベーションが「魔法」のように見えるのは、その裏側に極めて厳格で科学的な開発プロセスが存在するからです。天才的なひらめきに頼るのではなく、仕組みによって成功の再現性を高めているのです。
イノベーションを確実に届ける「SIMPL」
P&Gには、アイデアを確実に市場へ出し、成功へ導くための標準化された開発プロセス「SIMPL(Successful Initiative Management and Product Launch)」が存在します。
フェーズ管理の徹底: 構想から市場投入までの各段階において、厳しい評価基準が設けられています。これにより、消費者にとって価値の低いプロジェクトは早い段階で淘汰され、成功の可能性が高いものにリソースが集中されます。
多機能チーム(MFT)の連携: 開発の初期段階から、マーケティング、R&D、生産、営業、財務など、あらゆる部門が参画します。この「統合的リーダーシップ」により、技術的に可能であっても「売れない」製品や、マーケティング的に優れていても「作れない」製品といった致命的なミスを防ぐのです。
消費者の価値を科学する「CVA」
もう一つの核心が、「CVA(Consumer Value Analysis:消費者価値分析)」です 。これは、製品が消費者に提供する価値を、競合製品と比較して客観的・定量的に評価する手法です 。
便益の定量化: 単に「良い製品」を目指すのではなく、消費者がその製品に対してどれだけの対価を支払う価値(バリュー)を感じているかを科学的に分析します。
競合優位性の確認: CVAを通じて、自社の製品が競合に対して「圧倒的に優れている(Superior)」と証明されなければ、大規模な投資は行われません。この厳格な基準が、市場投入後の高い成功率を支えているのです。
3. FMOTとSMOT:2つの「真実の瞬間」を制する
どんなに革新的な製品を開発しても、それが消費者に選ばれ、そして満足してもらえなければ、ビジネスにはなりません。A.G.ラフリー氏は、消費者の購買プロセスにおいて、ブランドの勝敗を分ける2つの決定的な瞬間が存在すると提唱しました。それが、「FMOT(エフモット)」と「SMOT(エスモット)」です。
FMOT (First Moment of Truth) - 第一の真実の瞬間 これは、消費者が店頭の棚の前で、どの製品を買うかを決める「3~7秒間」のことを指します。スーパーやドラッグストアの棚には、無数の競合製品がひしめき合っています。その中で、消費者の足を止めさせ、注意を引き、手に取らせ、そして「これを買おう」と決断させる。この短い時間に、ブランドのすべての努力が凝縮されています。 FMOTを制するために、P&Gは徹底的にこだわります。
パッケージデザイン: 数多くの製品が並ぶ中で、一瞬でブランドを認識させ、主要な便益を伝え、魅力的に見えるデザインでなければなりません 。P&Gでは、実際の店舗と同じ棚を再現したリサーチ・調査分析施設で、消費者の視線がどう動くかをアイトラッキング技術で分析するなど、科学的なアプローチでパッケージを開発します。
店頭での陳列(ショッパーマーケティング): ターゲットとなる消費者が最も目にする棚の高さや位置はどこか。どのように並べれば、カテゴリー全体の売上が最大化するのか。これらのショッパー(買い物客)インサイトに基づき、小売業者と協力して最適な売り場作りを目指します。
SMOT (Second Moment of Truth) - 第二の真実の瞬間 これは、消費者が自宅に帰り、購入した製品を実際に「使用する瞬間」のことを指します。ここで、製品が期待通りの、あるいは期待を上回る体験を提供できるかどうかが、リピート購入、そしてブランドへの信頼とロイヤルティを決定づけます。 P&Gには「The best form of marketing is a great product.(最高のマーケティングとは、優れた製品そのものである)」という言葉があります 。どんなに巧みな広告や美しいパッケージも、製品体験が伴わなければ、消費者は二度と戻ってきてはくれません。SMOTでの感動こそが、最も強力なブランド構築活動なのです。 ファブリーズが期待通りに嫌な臭いを消し去り、爽やかな香りを残した瞬間 。パンパースのおむつが、一晩中赤ちゃんのおしりをサラサラに保ってくれた朝。この一つひとつのポジティブな体験の積み重ねが、ブランドと消費者の間に揺るぎない信頼関係を築き上げます。
デジタル時代における進化:ZMOTの登場 ラフリー氏がこの概念を提唱した後、Googleはデジタル時代の新たな真実の瞬間として「ZMOT(ズィーモット、Zero Moment of Truth)」を提唱しました。これは、消費者が店舗に向かう「前」に、スマートフォンやPCで検索し、レビューを読み、SNSで友人の意見を聞き、製品を比較検討する瞬間を指します 。 現代のマーケティングでは、このZMOTを制することが極めて重要になっています。消費者が「〇〇(製品カテゴリー) おすすめ」と検索した時に、自社ブランドの情報が最上位に表示されるか。インフルエンサーや一般ユーザーから、好意的なレビューや口コミが生まれているか。これらのオンライン上の情報が、消費者の来店前の購入意欲を大きく左右するのです。
私がスマートニュースやロクシタンでビジネスに携わっていた際も、このZMOTの攻略は最重要課題でした。オンラインでの評判をいかにして作り、FMOTである店舗やECサイトへといかにスムーズに繋げるか。そして、購入後のSMOTでの優れた体験が、次のZMOTを生み出すポジティブなレビューや口コミへと繋がる。このZMOT-FMOT-SMOTのサイクルを高速で回すことが、現代のオムニチャネル環境における勝利の鍵となります。
4. 小売業者との協業:JBP(Joint Business Plan)の本質
P&Gの強さを語る上で、もう一つ欠かせないのが、ウォルマートやコストコ、あるいは日本のイオンやマツモトキヨシといった、小売業者との極めて強固なパートナーシップです。多くのメーカーが小売業者との間で、納入価格や販促費を巡る厳しい交渉、つまりゼロサムゲームを繰り広げているのに対し、P&Gは彼らと「共に成長するパートナー」という関係を築いています。その根幹にあるのが、「JBP(Joint Business Plan)」という考え方です。 JBPとは、メーカーであるP&Gと小売業者が、単に個別の商品の売買条件を交渉するのではなく、1年先、あるいは3年先を見据えて、共通の事業目標を設定し、それを達成するための共同の事業計画を策定・実行する取り組みです。
共通目標の設定: 例えば、「〇〇(店舗名)のヘルス&ビューティーカテゴリー全体の売上を、来期10%成長させる」といった、両社にとってWin-Winとなる目標を設定します。
ショッパーインサイトの共有: P&Gは自社が持つ消費者・ショッパーに関する深い知見を提供し、小売業者は自社が持つPOSデータや顧客データを提供します。これらを突き合わせることで、「この店の顧客は、何を求めて来店し、どのように商品を選んでいるのか」というショッパーインサイトを共に深めます。
共同でのプランニング: 共有されたインサイトに基づき、品揃え(アソートメント)、棚割り(シェルフ・マネジメント)、価格設定、プロモーション活動などを共同で計画します。これは、P&Gが提唱する「カテゴリーマネジメント」というアプローチであり、自社ブランドの売上だけでなく、カテゴリー全体の魅力を高め、ショッパーにとって買いやすい売り場を作ることを目指します。
実行と評価: 策定したJBPに基づき、両社が協力して店頭での施策などを実行し、その結果を定期的にレビューし、次の計画へと繋げていきます。
なぜP&Gは、このような関係を築けるのでしょうか。それは、「Consumer is Boss」だけでなく、「Shopper is Hero(買い物客こそがヒーローだ)」という視点を持ち、小売業者のビジネス、そしてその先にいるショッパーのことを、自社と同じくらい真剣に考えているからです 。小売業者にとって、P&Gは単なる商品を納入する「サプライヤー」ではなく、カテゴリー全体の売上と利益を向上させてくれる、信頼できる「コンサルタント」であり「パートナー」なのです。 私が社外で見てきた多くのメーカーは、小売業者を「商品を売りつける相手」としか見ていませんでした。その結果、関係は常に対立的になり、短期的な値引き合戦に終始し、ブランド価値は毀損していく。この悪循環から抜け出すためには、小売業者の課題に寄り添い、共にショッパーへの価値提供を目指すという、P&GのJBPの本質を学ぶ必要があるのです。
第4部:組織と人材 - 最強の「マーケティング経営者」集団の作り方 (The "People")
ここまで、P&Gの思想、戦略、そして実践論を解説してきました。しかし、どんなに優れた哲学やフレームワークも、それを実行する「人」と「組織」がなければ機能しません。P&Gの本当の、そして模倣することが最も困難な競争優位性は、その「人」と「組織文化」にあると私は断言します。
この部では、いかにしてP&Gがブランドを経営できる人材を育て、戦略を実行できる組織を作り上げているのか、その詳細に迫ります。
第1章:ブランドマネージャーという仕事
P&Gの組織を理解する上で、まず知るべきは「ブランドマネージャー」という職務の特異性です。P&Gは、1931年に世界で初めてこの「ブランドマネージャー制度」を導入した企業として知られています。そして、その役割は、一般的な企業の「マーケティング担当者」や「商品企画担当者」とは全く異なります。
1. 「ミニCEO」としての役割と責任
P&Gのブランドマネージャーは、担当するブランドの「ミニCEO(ミニ最高経営責任者)」と表現するのが最も的確です。彼らは、単にマーケティング活動の責任を負うだけではありません。ブランドという一つの「事業体」の経営責任そのものを担うのです。
PL(損益計算書)責任: ブランドマネージャーの最も重要な責任は、担当ブランドのPL全体に責任を持つことです。売上高から始まり、売上原価、広告販促費(BSA)、人件費を含めた販管費、そして最終的な営業利益や純利益まで、そのすべてが彼らの評価指標となります。これにより、ブランドマネージャーは、短期的な売上を追い求めるだけでなく、コスト意識を持ち、いかにして持続的な「利益」を生み出すかという、経営者としての視点を必然的に持つことになります。広告費を1億円追加で投下すべきか、それともその分を製品の原価改善に回して利益率を高めるべきか。そうしたトレードオフの判断を、日々迫られるのです。
多機能チームのリード: ブランドマネージャーは、自身の直属の部下(アシスタント・ブランドマネージャーなど)は少数ですが、実際には巨大な多機能チーム(Multi-Functional Team)を率いるリーダーです。そのチームには、マーケティング(CMK)、研究開発(R&D)、生産、サプライチェーン、営業(CBD - Customer Business Development)、ファイナンス、法務など、ブランドの事業活動に関わるすべての機能部門の専門家が含まれています。ブランドマネージャーの役割は、この多様な専門家チームの「ハブ」となり、ブランドのビジョンと戦略を示し、各機能の専門性を統合して、共通の目標達成へと導くことです。それは、まるでオーケストラの「指揮者」のようなものです。各楽器の奏者(専門家)は、自分のパートの演奏技術には長けていますが、最終的に美しい交響曲を奏でるためには、指揮者が全体のテンポや強弱をコントロールし、すべての音を調和させなければなりません。ブランドマネージャーも同様に、各部門の言語や論理を理解し、時には対立する意見を調整しながら、ブランドという一つの事業を成功へと導くのです。
権限なきリーダーシップ:多機能チームのハブとしての技術 ブランドマネージャー(BM)は多機能チーム(MFT)を率いますが、R&Dや営業、ファイナンスの担当者はBMの直属の部下ではありません 。そのため、BMには「権限」ではなく「影響力」で人を動かす高度な統合的リーダーシップが求められます 。各部門の専門用語やKGIを理解し、それを「ブランド全体のPL(利益)」という共通言語に翻訳して議論をファシリテートする能力こそが、最強の組織能力を支えるのです 。
2. ブランドマネージャーに求められる5つの能力
この「ミニCEO」という重責を果たすために、P&Gのブランドマネージャーには、極めて高いレベルで、以下の5つの統合的な能力が求められます。
リーダーシップ: 明確なビジョンを示し、多様なバックグラウンドを持つチームメンバーを動機づけ、困難な状況でもぶれずにチームを目標達成へと導く力。権限で人を動かすのではなく、信頼と説得力で人を巻き込む力が求められます。
戦略的思考力: 常に大局観を持ち、第2章で解説した「Playing to Win」の5つの問いに答え続ける力。市場と競合の動きを読み、ブランドの進むべき針路を定める能力。
分析力: データという無数の情報の中から、本質的なインサイトを抽出し、客観的な事実に基づいて意思決定を行う力。直感や経験だけでなく、論理とデータで語る能力。
問題解決能力: 日々発生する予期せぬ課題(競合の奇襲、生産トラブル、ネガティブな口コミなど)に直面した際に、問題の根本原因を見抜き、創造的な解決策を立案し、粘り強く実行する力。
コミュニケーション能力: チーム内の専門家、上司である経営層、社外の広告代理店や小売業者といった、多様なステークホルダーと円滑な意思疎通を図り、信頼関係を構築し、物事を前に進める力。
これらの能力は、座学だけで身につくものではありません。P&Gのブランドマネージャーは、既存品の売上やシェアの向上、新製品開発プロジェクト、年次のビジネスレビュー、小売業者とのJBPといった、日々の修羅場とも言えるビジネスの最前線で、これらの能力が否応なく試され、そして磨かれていくのです。
そして、これからの時代を考えるとき、この5つの能力に加えて、さらにいくつかの能力がブランドマネージャーには不可欠になると考えています。それは、テクノロジーへの深い理解、特にデジタルリテラシーやデータサイエンスの基礎知識、そしてAIを恐れるのではなく、自らの能力を拡張するツールとして使いこなす能力です。また、企業の社会的責任がますます問われる中で、サステナビリティに関する知見も必須となるでしょう。これからのブランド経営者は、伝統的なマーケティングスキルと、これらの新しい時代の要請に応える能力を兼ね備えた、真の「両利きの経営者」でなければならないのです。
第2章:最強のマーケター育成システム
第8章では、P&Gのブランドマネージャーが、担当ブランドの「ミニCEO」として、いかに広範で重い責任を担っているかを解説しました。PL(損益計算書)に責任を持ち、多機能チームを率いて事業全体を経営する。このような重責を、時には入社数年の若手が担うこともあるのです。
では、なぜそれが可能なのか。なぜP&Gは、このような優秀な「マーケティング経営者」を、再現性を持って輩出し続けることができるのでしょうか。その答えは、才能ある人材を偶然見つけてくるのではなく、原石を見つけ出し、意図的に磨き上げ、最強のマーケターへと育て上げる、極めて戦略的かつ体系的な「育成システム」にあります。この章では、P&Gの強さの根源である、その採用と育成の哲学に迫ります。
1. 採用フィロソフィーと育成文化
P&Gの人材戦略の根幹には、一貫した哲学があります。それは、組織の未来を担うリーダーは、外部から招聘するのではなく、自らの手でゼロから育てるという「内部育成」の思想です。
新卒採用・内部育成へのこだわり
私がP&Gを離れて驚いたことの一つに、多くの企業が部門長や役員といった幹部人材を外部からのキャリア採用で大量に補っている実態がありました。私自身も転職して他の企業に入ったので、文句をつける立場にはないですし、外部の血を入れることで組織を活性化させるメリットもあると思います。しかし、P&Gは、ごく例外的なケースを除き、リーダーシップポジションを外部採用で埋めることをほとんどしません。ブランドマネージャーも、ディレクターも、ヴァイスプレジデントも、そのほとんどが新入社員としてP&Gの門を叩き、内部でキャリアを積み上げてきた人々です。
なぜ、これほどまでに内部育成にこだわるのか。理由は複数あります。
第一に、組織文化と共通言語の維持です。前述した「Consumer is Boss」という哲学や、「OGSM」「ビジネスレビュー」といったフレームワークは、P&Gの社員にとっては呼吸をするのと同じくらい当たり前の「共通言語」であり、思考のOSです。このOSを完全にインストールしていない人材がトップに立つと、組織の意思決定に歪みが生じかねません。
第二に、長期的な視点での人材投資です。P&Gは、新入社員一人ひとりを、将来のCEO候補として採用します。だからこそ、目先のスキルだけでなく、長期的な成長ポテンシャルを見極め、時間とコストをかけてじっくりと育成するのです。これは、短期的な業績を求める外部採用とは対極にある思想です。
リーダーシップポテンシャルの見極め
P&Gの採用面接は、極めて厳格であることで知られています。その特徴は、過去の実績や専門知識を問う以上に、候補者が持つ「リーダーシップポテンシャル」を見極めることに主眼が置かれている点です。私自身も、採用面接官として数多くの学生と会ってきましたが、常に見ていたのは、以下のような資質でした。
戦略的分析能力: 複雑な問題を構造的に捉え、データや事実に基づいて目的に対する論理的な結論を導き出せるか。ケーススタディなどを通じて、その思考プロセスを徹底的に確認します。
リーダーシップと主体性: 学生時代のサークル活動やアルバイトなどで、自らが率先して目標を設定し、周囲を巻き込み、困難を乗り越えて何かを成し遂げた経験があるか。その中で、どのような役割を果たしたのか。
目的達成への執着心: 困難な状況でも諦めず、粘り強く成果を追求できるか。
学習意欲と謙虚さ: 失敗から学び、他者の意見に素直に耳を傾け、自らを成長させようとする意欲があるか。
これらの資質は、P&Gが定義していた「サクセスドライバー」という評価基準に直結しており、入社後のパフォーマンスを予測する上で極めて重要だと考えられていました。
「Up or Out」の本当の意味
P&Gの人事文化を語る上で、しばしば「Up or Out(昇進か、さもなくば去れ)」という言葉が、厳しいリストラ策のように誤解されて語られます。しかし、これは本質を捉えていません。P&Gにおけるこの言葉の本当の意味は、「個人と組織の双方にとって、健全な新陳代謝を促すための文化」です。
P&Gでは、各役職で求められる成果と能力レベルが明確に定義されています。社員は、そのレベルで期待されるパフォーマンスを発揮し、さらに上の役職を目指して成長し続けること(Up)が求められます。もし、ある社員が一定期間、その役職で求められる成長を遂げることができず、停滞してしまった場合、会社はその社員をそのまま放置しません。なぜなら、成長できない社員を同じポジションに留め置くことは、本人のキャリアにとって不幸であると同時に、そのポジションを担うべき後進の成長機会を奪い、組織全体の活力を削ぐことになると考えるからです。
そのため、会社は本人と真剣な対話を持ち、P&Gの中で別のキャリアパスを探るか、あるいは本人の能力がより活かせる社外の新しい環境に移ること(Out)を促します。これは、決して冷徹な切り捨てではなく、個人と組織の双方にとっての「最適化」を目指す、極めて合理的で、ある意味では誠実な文化なのです。この文化があるからこそ、組織は常にフレッシュな状態を保ち、社員一人ひとりも、自身の成長に対して高い意識を持ち続けることになるのです。
ローテーション制度という育成投資
P&Gのマーケターは、キャリアの初期段階で、意図的に多様な経験を積むためのローテーションを経験します。例えば、私は、入社時からベビーケアの「パンパース」を担当し、次は、営業マンとして営業現場に出て、その後ヘアケアの「パンテーン」を担当しました。最近ですと、日本のマーケティングチームから、シンガポールのアジア統括本部へ。時には、営業部門(CBD)に出向し、小売業者との最前線の交渉を経験することもあります。
こうしたローテーションは、社員に多角的な視点と幅広いビジネススキル、そして社内の人的ネットワークを構築させるための、極めて戦略的な人材投資です。異なるカテゴリー、異なる市場、異なる機能に身を置くことで、マーケターは自らの思考の癖や固定観念を打ち破り、より汎用性の高い「経営者」としての視野を広げていくことができるのです。
2. W&DPとキャリアディスカッション
P&Gの育成システムを具体的に支えているのが、「W&DP(Work & Development Plan)」と、年に一度行われる「キャリアディスカッション」です。これは、個人の目標と会社の目標を合致させ、継続的な成長をドライブするための、極めて精緻な仕組みです。
W&DP (Work & Development Plan) の仕組み
W&DPは、P&Gの社員一人ひとりが、毎年、上司と合意の上で作成する「業務計画書」兼「能力開発計画書」です。その最大の特徴は、個人の目標が、第3章で解説したOGSMのフレームワークを通じて、ブランド、事業部、そして全社の目標と完全に連動している点にあります。
W&DPは、大きく2つのパートから構成されます。
1. Work Plan(業務計画):
§ その年度に達成すべき、具体的で測定可能な業務目標(Goals)と、そのための主要な戦略・活動(Strategies/Measures)を記述します。これは、まさに個人版のOGSMです。「〇〇ブランドのシェアを1%向上させる」「新製品Xを計画通りにローンチし、売上目標Yを達成する」といった目標が、会社のOGSMと紐づく形で設定されます。
2. Development Plan(能力開発計画):
§ 上記の業務計画を達成するために、そして将来のキャリアを見据えて、自身が強化すべき能力は何か、そのためにどのようなトレーニングや経験が必要かを具体的に記述します。「分析能力向上のために、データ分析の研修を受ける」「リーダーシップ強化のために、後輩の指導役を担う」といった計画が、上司との対話を通じて設定されます。
このW&DPは、年初に作成して終わりではありません。月次の1-on-1ミーティングや、半期ごとに行われる中間レビューを通じて、上司と進捗を確認し、必要に応じて軌道修正が行われます。そして期末のパフォーマンスレビューで、その達成度が評価され、翌年のW&DPへと繋がっていくのです。
キャリアディスカッション
日々の業務目標とは別に、P&Gでは年に1回以上、中長期的なキャリアについて上司と深く話し合う「キャリアディスカッション」の機会が設けられています。特筆すべきは、このディスカッションには、多くの場合、直属の上司だけでなく、そのさらに上の上司(one-up manager)も参加することです。
この場で、社員は自身のキャリアに対する希望(将来どのようになりたいか、どんな経験を積みたいか)を率直に伝えます。一方で、会社側も、その社員の強みや改善点、そして会社として期待する将来の役割やキャリアパスについてフィードバックを行います。この三者での対話を通じて、本人の希望と会社の期待をすり合わせ、次のローテーションやアサインメントを検討していくのです。これにより、キャリア形成の透明性が高まり、社員は納得感を持って、自身の成長に向けたステップを踏むことができます。
この仕組みは、他の日本企業で再現可能か? - 私なりの見解
私がコンサルティングで関わる中で、いくつかの企業の人事評価制度は、依然として年功序列の色彩が濃く、評価基準も曖昧で、上司の主観に大きく左右されるケースが少なくありませんでした。キャリアパスも不透明で、社員は「会社が次にどこへ異動させるのか」をただ待つしかない、という状況も散見されます。
このような環境で、P&GのW&DPやキャリアディスカッションの仕組みをそのまま導入することは、文化的な抵抗も大きく、困難かもしれません。しかし、下記のような「エッセンス」は、どんな組織でも導入可能であり、導入すべきだと常に提案しています。
目標と評価の透明化: 会社の目標と個人の目標を具体的にリンクさせ、何が達成できれば評価されるのかを明確にする。
上司による育成責任の明確化: 上司の役割を、単なる「管理者」ではなく、部下の成長に責任を持つ「コーチ」として再定義する。
キャリアに関する対話の機会創出: 年に一度でも良い、社員が自身のキャリアについて安心して上司と話せる公式な場を設ける。
これらの小さな一歩が、社員のエンゲージメントを高め、組織全体のパフォーマンスを向上させる、大きな変革のきっかけとなり得るのです。
第3章:ビジネスレビューという「経営道場」 - P&Gの強さの源泉
P&Gのマーケターが「ミニCEO」へと成長していく上で、最も重要な役割を果たすのが、解説で繰り返し触れてきた「ビジネスレビュー」というプロセスです。これは、単なる進捗報告会ではありません。ブランドの経営に関わるすべての機能が集い、データとファクトに基づいて事業の過去・現在・未来を徹底的に議論する、いわば「経営道場」です。この道場での厳しい稽古を通じて、ブランドマネージャーは経営者としての視点と能力を磨き上げていきます。
1. ビジネスレビューとは何か? - ブランドを「会社」として経営する定例会議
「ビジネスレビュー」という言葉に馴染みのない方もいらっしゃるかもしれませんので、まずその定義から始めましょう。
ビジネスレビューとは、一言で言えば、「ブランドの過去・現在・未来を、データとファクトに基づいて全方位的に議論し、次の戦略的意思決定を行うための、最も重要な定例経営会議」です。
その目的は、第2部でも触れましたが、多岐にわたります。①業績評価と要因分析、②市場環境変化の把握、③戦略の有効性検証、④課題と機会の特定、そして⑤組織学習の促進。これらを、ブランドマネージャーという「経営責任者」のもと、定期的に行うことで、ブランドという事業体の持続的な成長を目指します。
P&Gでは、このビジネスレビューが、極めてシステマティックかつ厳格に運用されており、それ自体がP&Gの強さの源泉の一つとなっています。
2. 統合的ビジネスレビューの本質:なぜ部門ごとのレビューでは「部分最適」に陥るのか
私が関わった多くの企業が陥っている最大の罠が、このビジネスレビューに相当する業務の分断と「サイロ化」です。
例えば、月曜の午前中は、営業部長が社長に売上目標の進捗を報告する「営業会議」。火曜の午後は、マーケティング部長が新キャンペーンの成果を報告する「マーケティング会議」。水曜には、開発部長が開発スケジュールの遅れを報告する「開発会議」。そして月末には、経理部長がPL(損益計算書)の結果を報告する「経営会議」。
それぞれの会議は真剣に行われていますが、参加者も議題もバラバラで、情報が統合されることはありません。その結果、誰もが、全体を把握できず、組織はサイロ化し部分最適の罠に陥るのです。
営業部は、月々の売上目標を達成するために、利益率を度外視した値引き販売に走るかもしれません。それは、ブランド価値を毀損し、長期的な収益性を損なう行為ですが、営業部のKPIは達成されます。
マーケティング部は、話題性を狙って派手な広告キャンペーンを打ちますが、それが実際の店頭で売上に結びついているのか、営業部との連携がなければ検証できません。
開発部は、最高の技術を詰め込んだ製品を作りますが、それが消費者の本当に求める便益なのか、あるいは設定されたコスト内で製造可能なのか、マーケティング部や生産部とのすり合わせがなければ、自己満足に終わってしまいます。
このように、各部門がそれぞれの論理で最適化を図った結果、組織全体としては非効率で、矛盾した動きになってしまう。これがサイロ化です。
P&Gの統合的ビジネスレビューは、この問題を構造的に解決します。そこでは、ブランドマネージャー(ミニCEO)のもとに、マーケティング、営業、開発、生産、ファイナンスといったすべての機能の代表者が一堂に会します。そして、議論の軸となるのは、部門ごとのKPIではなく、ブランド事業全体のPL(損益)とその継続性という共通ゴールです。
この場では、営業担当者は「このプロモーションは売上は上がるが、利益率をこれだけ圧迫する」と発言し、生産担当者は「この新製品のコンセプトは素晴らしいが、現在の設備では安定供給にリスクがある」と指摘します。ファイナンス担当者は、すべての議論が財務的なインパクトにどう繋がるかを常に問いかけます。ブランドマネージャーは、これらの専門的かつ、時には対立する意見を統合し、ブランド事業全体の「全体最適」解、すなわち、持続的な利益成長に繋がる意思決定を下すのです。この統合的なアプローチこそが、ビジネスレビューの本質であり、P&Gの強さの秘訣です。
3. P&Gの強み:マンスリーレビューと年次レビューの連携サイクル
P&Gのビジネスレビューは、年に一度だけ行われるイベントではありません。それは、年に一度まとめるビジネスレビューに繋がる2種類のレビューが連携する、継続的なサイクルです。
マンスリーレビュー(短期のPDCA): これは、ブランドの日常的な脈動を捉え、迅速な軌道修正を行うための「作戦会議」です。毎月、前月の販売実績、シェア、主要KPIの進捗を確認し、市場や競合の直近の動きを共有します。ここでの議論は、主に「計画通りに進んでいるか?」「問題があれば、今すぐ何をすべきか?」といった、短期的なアクションプランに焦点が当てられます。
四半期、半期、年次レビュー(長期のPDCA): これは、四半期、半期、1年間のブランド活動を総括し、消費者や市場の構造的な変化を捉え、来期以降の大きな戦略の舵を切るための「経営戦略会議」です。マンスリーレビューよりも深い分析に基づき、「我々の『勝ち方』は今も有効か?」「戦うべき『場』を変えるべきではないか?」といった、ブランドの根幹に関わる議論を行います。
この2つのレビューが連携することで、P&Gは、短期的な市場の変化に対応する「機動力」と、長期的な視点で事業を構想する「戦略性」を両立させています。マンスリーレビューで日々蓄積されたデータと、そこで浮かび上がった小さな課題意識が、四半期、半期、年次レビューにおける深く、質の高い議論の土台となるのです。この絶え間ない徹底的なPDCAこそが、ブランドを常に健全で、競争力のある状態に保つ秘訣なのです。
4. ブランドマネージャーの役割:多機能チームを率いるファシリテーション
このビジネスレビューにおいて、ブランドマネージャーが果たすべき最も重要な役割について触れたいと思います。それは、会議の責任者であり「ファシリテーター」としての役割です。
ビジネスレビューは、ブランドマネージャーにとって、自身の分析力と戦略的思考力を披露する場であると同時に、チームの総合力を最大限に引き出すための「腕の見せ所」でもあります。そして、それは最大の「試練の場」でもあります。
準備段階では、各機能の専門家と協力し、深く、客観的な分析を主導します。そして会議本番では、多様な専門性を持つメンバーから、本質的な意見やデータを引き出し、それを全員が理解できる言葉に翻訳し、建設的な議論へと導いていかなければなりません。
P&Gの会議文化には、「Disagree and Commit(反対し、そしてコミットせよ)」という言葉があります。会議の場では、役職に関係なく、データとロジックに基づいて徹底的に議論し、反対意見を表明することが奨励されます。しかし、一度決定が下されたら、たとえ自分が反対していたとしても、全員がその決定にコミットし、一丸となって実行に移す。この健全なコンフリクト(対立)を恐れない文化が、意思決定の質を高めています。
ブランドマネージャーは、この健全な対立を演出し、管理する責任を負います。異なる意見の対立点と共通点を見出し、感情的な対立に陥らないように議論を交通整理し、最終的にブランドにとって最善の結論へとチームを導く。これは、極めて高度なファシリテーション能力を要求されます。
私も若い頃、準備不足でレビューに臨み、経営層からの厳しい追及に立ち往生し、冷や汗をかいた苦い経験が何度もあります。一方で、徹底的な準備と、チームメンバーへの敬意に基づいたファシリテーションによって、当初は反対意見が多かったプロジェクトの承認を勝ち取り、チーム全員で成功を分かち合った成功体験も大きな財産となっています。
ビジネスレビューは、ブランドを成長させるためのプロセスであると同時に、ブランドマネージャー自身を、そしてチーム全体を成長させるための、経営経験の機会なのです。
第5部:P&Gマーケティングの進化と他企業への応用 (The "Future & Application")
これまでに、P&Gの強さの根幹をなす「思想」、勝利への設計図である「戦略フレームワーク」、具体的な成果を生み出す「実践と戦術」、そしてそれらすべてを支える「組織と人材」について詳説してきました。これらは、P&Gが180年以上の歴史の中で築き上げてきた、いわば普遍的な「原理」です。
しかし、どんなに優れた原理も、時代の変化に適応し、自らを変革し続けなければ陳腐化し、やがては競争力を失います。「伝統は、革新し続けなければならない」のです。P&Gの本当の凄みは、その巨大な成功体験に安住することなく、常に自らを破壊し、未来に向けて進化しようともがいている点にあると私は考えています。
この最終部では、デジタル、サステナビリティ、そしてAIという現代の巨大なうねりの中で、P&Gがいかにそのマーケティングを進化させているか、その最前線の挑戦を外部から調べることでまとめた内容を紹介します。そして、その学びを、P&Gとは異なる規模や業態の企業が、それぞれの成長へ、どう応用していくべきか具体的な提案をしたいと思います。
第1章:AIとサステナビリティによる「建設的破壊」の深化
2026年現在、企業経営を取り巻く環境は、かつての「デジタル化」という言葉では括りきれない、指数関数的なテクノロジーの進化と、不可逆的な地球環境への責任という2つの巨大なうねりの中にあります。世界最大の消費財メーカーであるP&Gも、2020年代前半に掲げたビジョンをさらに深化させ、AIによる全社的な再発明と、事業成長と環境負荷低減を完全に切り離す「デカップリング」という新たなフェーズへと足を踏み入れています。
1. 「知時的な創造性」とAIによる再発明:マーク・プリチャードの挑戦
近年のP&Gマーケティングの象徴であるチーフ・ブランド・オフィサー、マーク・プリチャード氏は、2026年度(2025年後半~)の戦略において「Timeless Creativity(時代を超越した創造性)」と「AI主導の建設的破壊(AI-led Constructive Disruption)」の融合を提唱しています。
プリチャード氏が長年掲げてきた"Constructive Disruption"(建設的破壊)という哲学は、2026年時点では、単なるデジタル広告の透明性確保を超え、バリューチェーン全体をAIで最適化し、ブランド構築そのものを再定義する段階に達しています。
マス・マーケティングから「プレシジョン・ブランド構築」へ
2026年1月期の決算報告において、P&Gは「50の主要なカテゴリー・国」の組み合わせに対して、AI主導の建設的破壊をスケールさせる計画を明らかにしました。これは、従来の「広く、薄く」というマス・マーケティングの限界を突破し、データに基づいた「精密なブランド構築(Precision Brand Building)」へと完全に移行したことを意味します。
AIによる全方位的な最適化
現在のP&Gは、ペタバイト規模の構造化データレイクを構築し、そこからAIを用いてメディア制作、棚割り最適化、さらには小売業者の需要シグナルに即応するサプライチェーン・システムを運用しています。かつては「コスト」と見なされていたデータ収集は、今やAmazonなどのデジタル・リテーラーとの競争において「競争優位の源泉」へと昇華されました。
「Project Genie」:社内AIの浸透
マーケティング組織の内部では、生成AIツール「Project Genie」などが800名以上のカスタマーサービス担当者に導入され、消費者の質問処理時間を劇的に短縮するなど、現場レベルでのAI活用が標準化されています。プリチャード氏は、テクノロジーが指数関数的に変化する今だからこそ、「顧客を知る」「ブランドを深く理解する」という不変の原理をAIで増幅させることの重要性を強調しています。
この変革を支えるのが、自社で管理する数十億人規模の1st Party Dataです。単に広告を最適化するだけでなく、「どの消費者がどのタイミングで最も価値を感じるか」を予測し、Eコマースでの購買体験をシームレスにつなげる「デジタル・シェルフ」の実行が、2026年度の最優先課題となっています。
2. 「Force for Good and Force for Growth」:サステナビリティの統合
P&Gにおいて、サステナビリティはもはや独立した「社会貢献活動」ではなく、ブランドの優位性(Superiority)を構成する不可欠な要素です。同社は2026年を目前にした2025年後半、長期目標「Ambition 2030」の中間進捗を報告し、環境負荷低減と利益成長が両立可能であることを実証しています。
「Ambition 2030」の現在地(2026年1月時点の進捗)
P&Gは、2040年までのネットゼロ達成に向け、2030年目標に対して顕著な成果を上げています。
製造拠点の温室効果ガス削減: 2010年比で60%の削減を達成しました。
再生可能電力の導入: 世界の事業拠点で使用する電力の99%を再生可能エネルギーへ移行完了しています。
循環型パッケージ: 消費者向けパッケージの80%がリサイクル可能または再利用可能な設計となっており(2020年の55%から大幅増)、2030年までの100%達成に向けて加速しています。
プラスチック削減: パッケージあたりの石油由来バージン・プラスチック使用量を2017年比で21%削減しました。
社会的便益の提供とシチズンシップ
環境問題に加え、P&Gは「シチズンシップ(市民性)」という枠組みを通じて、コミュニティへの影響、平等と包摂(Equality & Inclusion)、倫理的ガバナンスを経営の核としています。
Children's Safe Drinking Water (CSDW) プログラム: 安全な飲料水を提供し、2025年までに250億リットルの提供を目指していたこの活動は、世界中の150以上のパートナーとの連携により、ブランドへの信頼を強固にする大きな柱となっています。
Always "#LikeAGirl" からの進化: 2026年現在も、社会課題に対するメッセージは「ブランドが特定の社会グループだけでなく、すべての人々にとっての良き力(Force for Good)であること」を証明するために戦略的に活用されています。
サステナビリティが成長をドライブする理由
現在の消費者は、製品が「環境に良い」だけでなく、「環境に良く、かつ機能的に圧倒的に優れている」ことを求めています。P&Gはこのニーズを「持続可能な卓越性(Sustainable Superiority)」と呼び、パンパースやアリエールといったブランドを通じて、消費者が日常生活の中で無理なく炭素足跡(カーボンフットプリント)を削減できる製品開発を進めています。
3. 未来への指針:2026年以降のマーケターへ
P&Gのパーパスドリブン・マーケティングは、2026年において「生き残るための必須条件(License to Operate)」となりました。機能的便益(よく落ちる、肌に優しい)と情緒的便益(安心、満足)に加えて、「社会的便益(このブランドを買うことが社会や地球にとってプラスになる)」という三層構造の価値提案が、ミレニアル世代からZ世代、さらにはα世代に及ぶ全世代の支持を得るための鍵となっています。
CEOのジョン・メーラー氏は、2026年度の指針として「統合された戦略(Integrated Strategy)」の継続を宣言しています。それは、AIによる効率性と、人間の創造性、そして社会に対する誠実さを一つのビジネスモデルとして融合させることです。
P&Gの挑戦が教えてくれるのは、時代がどれほど複雑になっても、「消費者の生活を豊かにする」という目的のために、自らを進化させ続ける姿勢こそが、最強のマーケティング原理であるということです。テクノロジーは手段であり、サステナビリティは責任ですが、その中心にあるのは常に「生身の人間」への深い理解なのです。
第2章:AIと共存する未来のマーケティングと、他企業への応用
本稿の最終章として、2023年に幕を開けた「生成AI革命」が、P&Gの質実剛健なマーケティングに、どんな影響を与え、今後、どのように変えるのかを予測解説します。
1. AIが再定義するマーケティング・プロセス:2026年の現実
私は、AIが、この数年で現在私たちがマーケティングと呼んでいる業務作業の大部分を代替すると考えています。しかし、AIがマーケターの仕事をすべて奪うとは考えていません。むしろ、AIはマーケターをより創造的で、より戦略的な仕事に集中させてくれる「最強のパートナー」となり得ると確信しています。これまで解説してきたP&Gのプロセスが、AIによってどう変わったのか、そして、今後どうなるのかを予測してみます。
① ビジネスレビューの自律化と「予測型経営」への転換
第10章で詳説したP&Gの強さの源泉、ビジネスレビュー。かつては数週間かけて準備していたこのプロセスは、AIの介入によって劇的に変革され始めています。
データ収集・分析の完全自動化: AIエージェントは、社内外の膨大なデータを24時間365日モニタリングし、異常を検知し、その要因を因果推論アルゴリズムで自動分析します 。ブランドマネージャーは、もはやデータ集計やグラフ作成に時間を費やす必要はありません 。
戦略的論点の自動抽出と高度化: 最新の大規模言語モデル(LLM)は、過去の膨大な議事録や最新の市場データを分析し、レビューで議論すべき「真の戦略的論点」を提案してくれます 。さらに、その分析結果に基づいて、説得力のあるプレゼンテーション資料のドラフトを数分で作成することも可能です。
これにより、ブランドマネージャーや経営層は準備作業から解放され、議論と意思決定という、人間にしかできない最も価値ある仕事に集中できるようになります。ビジネスレビューの場は「過去の報告」から、「未来への投資判断」を行う「予測型経営」の場へと完全にシフトします。
② インサイト抽出とクリエイティブ開発におけるAIとの共業
P&Gの哲学「Consumer is Boss(消費者がボス)」も、AIによってその精度が極限まで高まっていきます。
インサイトの発見: AIは、何千もの消費者インタビューの音声データや、何万ものSNS投稿、ウェブサイトの閲覧履歴といった非構造化データを瞬時に分析し、人間では見つけられないようなインサイトの「種」を発見してくれます。マーケターの役割は、その種の中から本物を見極め、磨き上げ、戦略に繋げることへとシフトしていきます。
クリエイティブの生成: 生成AIは、ブランドコンセプトやターゲット顧客の情報を基に、広告のキャッチコピー、デザイン案、動画の絵コンテといったクリエイティブの「たたき台」を、無数に、そして瞬時に生成することができます。人間のクリエイターはゼロからアイデアを生み出す苦しみから解放され、AIが生成した多様な選択肢の中から最も優れたものを選び出し、それをさらに昇華させるという、より高度な創造性を発揮することに集中できるようになります。
AIはマーケターの業務作業を代替しますが、その思考のすべてを代替するのではなく、高次元の意思決定をサポートします。それは私たちの能力を飛躍的に高めてくれる「知的なアシスタント」であり、新たなアイデアの着想を与えてくれる「優秀な壁打ち相手」なのです。
2. 2026年、企業間格差の現実:AIを使いこなせているか
このAIという強力な武器を使いこなせているかどうかによって、2026年時点において、企業間には絶望的とも言える格差が生まれつつあります。この格差の根源は、単なるツールの導入有無ではなく、「ビジネスレビューという経営の規律(ディシプリン)」がデジタルと融合しているかどうかにあります。
この予測される近未来に対して、皆さんの会社は、どのレベルにあるでしょうか。ぜひ、一度自己診断してみてください 。
【レベル1:未導入段階】 - 仕組みそのものが存在しない
定期的なビジネスレビューの仕組みそのものが存在しません。その場の思い付きや、声の大きい経営者の勘で戦略が決まる段階です。この段階の企業は、2026年の市場スピードにはもはやついていけません。
【レベル2:サイロ化段階】 - 情報の断絶
営業、マーケ、開発など、部門ごとにバラバラの報告会が行われているだけで、情報が統合されていません。組織は「部分最適」の罠に陥っており、全体像が見えていない状態です。
【レベル3:統合段階】 - 多機能チームの集結
ブランドや事業単位で多機能チームが集まり、ブランド全体のPL(損益)視点で定例議論ができている状態です。P&Gが長年実践してきた「統合的レビュー」がこれにあたります。
【レベル4:DX化段階】 - データの民主化
BIツールやダッシュボードが導入され、データに基づいた議論が効率的に行われています。情報の透明性が高まり、判断のスピードが向上した段階です。
【レベル5:AI活用段階】 - 予測的・戦略的経営の極致
AIによる分析の自動化や戦略提案が導入され、予測的・戦略的な議論が行われていま 。ブランドマネージャーの役割は、AIが出した「予測シナリオ」を吟味し、最終的なリスクを取って意思決定することに特化します。
私がこれまでに見てきた多くの企業は、残念ながらレベル1かレベル2に留まっています。言い方を変えれば、レベル1、2が大勢の中で、もしレベル3の「統合的レビュー」が実践できているのであれば、それだけで、かなりの優位性があると言えるでしょう。しかし、P&Gのように180年以上も継続的に収益を上げ続ける企業は、既にレベル4を成熟させ、レベル5へと突き進んでいます。
3. 格差を埋めるための「超具体的スモールウィン」戦略
では、レベル1・2の企業はどうすればよいのか。 いきなり「全社的なDX」や「完璧なAIシステム」を目指してはいけません。理想が高すぎて足がすくみ、結局何も変わらないのが最悪のシナリオです。
重要なのは、予算も承認もいらない「明日からできる小さな実験」で成功体験(スモールウィン)を作ることです。以下の3つのステップで、現場の行動を変えていくことを提案します。
【第一歩】 脱・集計屋(「分析」をAIに丸投げしてみる)
いきなり全社のBIツール導入を目指すと、要件定義だけで半年かかります。まずは個人の手元作業から変えます。
具体的なアクション:
今のExcelデータ(機密情報をマスクしたもの)をそのまま、GeminiやChatGPT等の生成AIにアップロードしてください。
そして、こう命令するのです。「この売上データの特異点を3つ挙げて、グラフ化して」。
これまで数時間かけていた集計・グラフ作成を数秒で終わらせ、「数字を見て考える時間」を強制的に作り出すことが第一歩です。
【第二歩】 ワンテーマ・ワンテーブル(「情報の壁」を物理的に壊す)
全事業での統合レビューはハードルが高いです。「たった一つの商品」に絞って、サイロ(部門の壁)を壊す予行演習をします。
具体的なアクション:
課題のあるブランドや商品を1つだけ選びます。
営業、マーケティング、開発の担当者を呼び、30分だけ「茶のみ会議(Coffee Break Meeting)」を開催します。
ルールは一つ。「自部門の都合(守り)ではなく、『なぜこの商品は売れていないのか、どうすれば売れるか(攻め)』について、それぞれの持っている数字を持ち寄って話すこと」。これだけで、驚くほど視界が開けます。
【第三歩】 AI壁打ち(「会議」の質をハックする)
会議の議事録作成にAIを使うのは「守り」の使い方です。「攻め」のAI活用を試します。
具体的なアクション:
会議の前に、議題や想定される戦略案をAIに入力し、こうプロンプトを投げます。
「あなたは辛口の投資家です。この議題や戦略案の論理的な弱点とリスクを3つ厳しく指摘してください」
AIが出した「痛い指摘」を会議の冒頭で共有し、それをどう乗り越えるかを議論のスタート地点にします。これにより、予定調和で終わる会議が、真剣な戦略議論の場へと変わります。
この小さな変化の積み重ねこそが、組織変革への最大の推進力です。
ビジネスレビューは単なる進捗報告の場ではありません。AIという最新テクノロジーをパートナーにし、ブランドマネージャー自身とチームを「未来の経営者」へと進化させる、いわば「実戦形式の経営道場」なのです。
4. 他企業への応用:P&Gの「原理」を自社に導入するためのステップ
ここまで、P&Gのマーケティングの思想、戦略、実践について詳説してきました。しかし、皆さんが最も知りたいのは、「では、この学びを、どうすれば自社のビジネスに応用できるのか?」ということかと思います。
最も重要なのは、P&Gのやり方をそのままコピーしようとしないことです 。P&Gのやり方は、その巨大なスケール、潤沢なリソース、そして180年以上の歴史の中で培われた組織文化という、特殊な土壌の上で最適化されたものです 。それを、異なる環境にある自社にそのまま移植してもうまく機能しません 。
重要なのは、その具体的な「実践(Practice)」の背景にある、普遍的な「原理(Principle)」を理解し、その原理を、自社の文化やリソース、事業フェーズに合わせて、最適な「実践」の形に翻訳・アレンジすることです 。
まず取り組むべきは、「消費者思考」「戦略」「人材育成」の三位一体の改革と「AIの活用」です 。これらは個別に進めても効果は限定的です。消費者理解を深めても、それを戦略に活かす仕組みがなければ意味がありません 。優れた戦略を描いても、それを実行できる人材がいなければ絵に描いた餅です 。そして、優秀な人材を採用しても、消費者と向き合い、戦略的に思考する文化がなければ、その才能は宝の持ち腐れとなってしまいます 。
経営者が強いリーダーシップを発揮し、これらの改革とA I活用を粘り強く推進していくこと。それこそが、P&Gの強さの本質を自社にインストールするための、唯一の道筋だと私は信じています 。
感謝、そして未来のマーケターたちへ
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。この内容をまとめる過程で、かつてP&Gのオフィスで、あるいは世界中の市場で、共に働き、議論し、悩んできた多くの方々の顔が浮かびました。この内容は、P&Gに対する私の理解をできる限り客観的に、まとめたものではありますが、その根底にある知識や思想には、今もブレはないと思います。「Consumer is Boss」という絶対原則 、勝利を定義する「Playing to Win」 、戦略を行動に変える「OGSM」。これらはすべて、P&Gという偉大な組織が180年以上の歳月をかけて培ってきた集合知です。私は幸運にもその一員として16年間を過ごし、真剣な議論の中でこれらの原理を経験させていただきました。常に厳しい問いを投げかけながらも、その成長を信じて支えてくれた上司の方々。部門の壁を越えて協力し、時には激しく意見をぶつけ合いながらも、「ブランドのPL(利益)」という共通言語のもとで同じゴールを目指したマルチファンクショナルチームの皆さん。そして、P&Gを巣立った後も各界のリーダーとして活躍され、私に多くのインスピレーションを与え続けてくれる素晴らしい同志たちに、改めて心からの敬意と感謝を捧げます。
原理は不変、実践は進化する
最後に、お伝えしたいのは、「原理は不変であり、実践は進化する」ということです。P&Gのマーケティングの強さは、時代や業界が変わっても揺らぐことのない4つの普遍的な「原理(Principle)」に根ざしていると考えます。
第一の原理:徹底した消費者(顧客)思考(Consumer-Centricity) すべての意思決定を、常に「消費者はどう思うか?」という問いから始めること 。事業の存在意義は、顧客自身もまだ言葉にできていない課題に応える「新しい便益(Benefit)」の提供にあると信じることです 。
第二の原理:戦略的選択(Strategic Choice) 限りあるリソースで勝利するために、「どこで戦うか(Where to Play)」だけでなく「どこで戦わないか」を明確に決める勇気を持つことです 。
第三の原理:データとインサイトに基づいた意思決定(Fact-Based Decision Making) 経験や勘だけに頼るのではなく、データに基づき、その裏にある「隠された真実(インサイト)」を発見して戦略の核に据えることです 。
第四の原理:組織と人材への投資(Investment in People & Organization) ビジネスの結果は最終的に「人」と「組織文化」によって決まるという信念のもと、ブランドを経営できる「マーケティング経営者」の育成に投資を惜しまないことです。
P&Gを離れ、その後、490社以上の多様な企業と向き合う中で確信したのは、これらの原理が、あらゆるビジネスにおいて成長の明確な指針となるという事実です。一方で、その「実践」は劇的に進化しています。かつての「真実の瞬間(FMOT/SMOT)」はデジタル時代の「ZMOT」へと広がり 、マス・マーケティングはAIを駆使した「プレシジョン・ブランド構築」へと変容しました 。重要なのは、新しい手法に飛びつくことではなく、不変の原理を自社の文化やリソースに合わせて編集しアレンジし続けることなのです。
そして、すべてのビジネスは、その大小を問わず、顧客への新たな「便益」と「独自性」を提供するために存在するという普遍の真理があります。マーケティングとは、単にモノを売る技術ではありません。それは、人々の生活を愛情をもって観察し、課題を解決するための価値を創造する尊い活動です。私はマーケティングが創造する「価値」を、「顧客(WHO)が、プロダクト(WHAT)の提案する『便益』と『独自性』を『自分ごと化』すること」と定義しています。
私たちが提供する便益は、家事を楽にする、自信を与える、家族との時間を作る、仕事が楽になる、プロセスが短縮できる、など、一つひとつは小さな変化かもしれません 。しかし、その積み重ねが世界を少しだけ良い場所に変えていくと信じています 。
AIは私たちの能力を飛躍的に拡張してくれますが、マーケティングの原点は常に、データの向こう側にいる生身の「顧客」の生活に、真摯に、そして謙虚に向き合うことです。
どうかそれを忘れずに、素晴らしい価値を創造していきたいです。皆さんの挑戦を、心から願っています。
この解説で触れたP&Gのビジネスレビュー、コアスキル、ブランドマネジメントに関しても、詳しい解説を別途発表していきたいと考えています。
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